高山良策 その4


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neoFERAS高山良策の世界

(再録)

「高山さんを訪ねて」 特撮同人誌 neoFERAS取材班

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特撮映像を愛好する仲間が集り同人誌を出す事になった。
編集のイロハも判らないうちに完成した1号は反省点も多く、2冊目に期待が寄せられた。次は手間を掛けて、商業誌で描けない部分を引出そう。徹底取材をして、スタッフの人物像を引出せたら。私生活やその背景、生の声を聴いて、伝え、残す。その人がどう生きてきてのか、皮膚感覚にまで迫る事が出来たら・・・。
題材は皆なの思い入れが最も強かった「ウルトラマン」。
会合を重ねてフィルムの支流を遡ってみると「怪獣」そのものを造った人物が浮かんできた。高山良策さんとの出会いはそんな我々の好奇心から始まった。
当時(S41年)の雑誌、「少年マガジン」や「アサヒグラフ」を覚えている者に、高山さんは、「絵描き」としての側面(勿論これが本業だった)と、気難しそうな「顔写真」の予備知識しかない。
プロダクションで聞いた住所を頼りに、往復ハガキを出した。
暫くして返信が来る。
以下文面。

「ボクは現在、怪獣など作ってはいないのだ。あれは遠い過去の話しで、いまさらウルトラマンだのセブンなどと言ったってピンと来ないわけ  
現在から未来の方を向いていたいのだ。
しかし、どうゆう訳か、昨年の暮にピープロの新番組のパイロット版でシルバージャガーのキャラクターの頭を二体造った頃からヘンな具合になり、熱烈ファンがいることを知り、ファンコレの雑誌がいっぱいあることを知り、たくさんのファンジンがあることも知り、驚愕するのである・・・。
あげくの果て、うちのおバサンが喜んじゃって、「PUFF」のおにいさん達を七、八名ご招待しちゃったので、「neoFERAS」の諸君からの申入れを、ムゲにことわる訳にも参らず、今月の20日以降は都合悪いので16~19日までの間ならOKなので電話をちょうだい。
                                      13/APR. 1980」
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1980年4月19日(土)朝10時半。初夏を思わせる晴天の石神井公園駅、改札前で待ち合わせ。
定刻通りに集って(いつもは決してそんな事はない)、喫茶店で念入りな打ち合せを始める。メンバー構成は、最年長の三木隆二、縫い包みマニアの松本茂実、美大生の常岡千恵子、そして代表山田正巳の計4人。誰ともなく曰く、
「怪獣の“か”の字でも出ようものなら、アラカツマが大魔神に変身するが如く逆鱗に触れるぞ!」
ハガキのユニークな文面をヨソに、取材陣は密かに恐れていた。
11時ちょっと前になったので、電話を入れてみる。迎えに来ると言われて慌てて遠慮して、道順を聞く。
「梅林を抜けてね・・・」
後に永々と通う事になる「梅林」。高山さんが石神井に越して来た時から、30年以上も変らない、数少ない風景。 
「2階から昔は西武線が見えたんだ。駅までね、何もなかったんだよ。」
ジグザグに密集した住宅地を避けて歩くこと約10分。
すかさず表札を発見する(この瞬間がファンには最高にスリリングなのだ)。
「アトリエ・メイ  高山良策 利子」 
幾多の怪獣たち、幾多のクリエーターたちが通り抜けた、細くて長い路地。
レンガ張りのタイルを急ぐと、庭から顔を覗かせたオブジェにまず挨拶。
呼吸を整えてからチャイムを押すと、奥さんが顔を出す。気さくに案内されて中へ続く。
奥の部屋。アトリエの中、カンバスに向かった高山さんがいた。
絵筆が止って白髪姿が振替える。かくしゃくとした態度が微笑んだ。
「狭くてね。この前はここに7、8人座ったんですよ。どうぞ、座って」
見るからに孝行爺って感じで一安心。言葉を選んで主旨を述べてみる。思うように切り出せず、しどろもどろ。
こちらが緊張してると、
「今ごろになってこんなに騒がれるなんて思いもよらなかったよ、エヘヘヘヘ」。笑いながら、ブリキの空き箱を隅から引っ張り出して見せてくれた。
中にはウルトラQからの歴代怪獣たちの製作スナップ写真が山ほど入っている。狂喜乱舞する我々一同。口々にウワーッだの、スゲーッだのの連発。
すると「まだあるんだよ。こっちはどう」と次から次へ。
「だけどね、誰が作っても出来は同じなんだよ。目に見えないところが大変なんだ。人が着るだろ。内側に手間がかかるんだ。」
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奥さんが付け加える。
「着た時どこかに針金が出て傷つけたらいけないし、動きやすいとか、根底に親切が入っているだけで、上の表面の皮は誰が作っても同じだと思うの。相手の身になって物を作る訳よね」
職人気質なのか、一言も他所との比較や批判を聞くことがなかったが、何十、何百人ものスタッフを擁する映像界は生き残るのが大変で、中傷だってある。粗製濫造が知らず内に悪循環する事もある。現実を覗くほどに大らかだった黄金時代は伝説となる。
かつて。
高山怪獣の生まれたアトリエでは、高山さんを中心に、男女の美大生がスタッフに加わっていた。
真摯に仕事をこなす高山さんと、彫刻や絵画を勉強しながら将来を夢見た若い力の組合せ。そんな中生まれた沢山の怪獣たちは、どれも、印象し易く、嫌味のない型と彩色を持っている。
照りを押えた皮膚感覚は絵描きのものだし、丁寧に作ったフィット感は、躍動となってTVの動きから伝わって来る。
名獣誕生の舞台は、アトリエの持つ、誠実でアットホームな環境にあったのかもしれない。
やがて怪獣作りの傍らで、3組ものカップルがゴールインしたことを聞く。しっかり作ってくれた事へ、怪獣が恩返したように思えてならない。アトリエの背景を知ってそう確信した。
色々なスナップの中にはそういった結婚式のものがいくつかあった。
アトリエから出た人達、そしてデザイナーの池谷仙克・みどり夫妻の写真もあった。
「高山さんたちの様な夫婦になりたいから」媒酌人を頼んだのだと言う。 
高山さんの人柄を伺わせる話しは枚挙に尽きないが、こんなエピソードもある。  
結婚して間もなく、奥さんがカリエスを患い、寝たきりの生活にかかったそうだ。高山さんは十年近い間、只一回も苦言を洩らず、看護に努めたと言う。
忍耐はいつの間にか、高山さんの最大の武器になったのかもしれない。それは戦争体験から来ているのか、それとも更に遡ったところにあるのか、知る由もない事だが。
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ところで、絵でも彫刻でも、作者の表情・造作が反映される事がままある。モチーフを潜在的に自分に擬えるからだろう。ラゴンやガラモンのへの字の口は、高山さんの口と同じものだった。昔雑誌で見たあの顔写真、口をへの字に結んだ気難しい表情は、実は耐え忍びが身に付いたものだった。
そして忍耐の裏腹に、高山さんが持つ事になったのは弱者を思う一途な優しさ、であった。
思いやりと忍耐は、若いカップルたちの良い手本となる。子供のいなかった高山さんも、慕ってきた彼等を自分の子供の様に思っていたに違いない。
今の子供とて、間接的に高山さんの世話になっている。本や玩具、TVで、数十年前と変ることなく、ゴモラやレッドキングが大活躍しているからだ。高山さんの怪獣で育った世代が、いつの間にか親になって、親子で怪獣の話題をする。
高山さんは日本中の子供らにとって、隠れた“ウルトラの父”のようだ。
紙の上の怪獣に生命を与えた高山さんの隠れた事実は普遍に残る。
一介の絵描きは運命によって児童文化の礎に貢献した作家の一人になった。例え仕事で関わった怪獣作りにせよ。
怪獣とは、陽性で、強く激しい、生命の具象を言う。
そのフォルムと躍動に、子供たちは驚きを感じ取る。
作り手の技量と判断で生まれる怪獣は、人に見せる上で時間と根気と良識との戦いだ。 
感受性の強い子供たちへ嘘を見せなかった、手を抜かなかった事は大きい。
足の裏が画面に映った時にのっぺりしていては変だから、足の裏には指紋がある。
「リアリティってこと、考えたの、いつも。おれ、絵描きだったろ、デッサンなんかも出来たしさ。口なんかもアゴの付け根から開くこと考えたんだ」
その都度、メモを取って解説をしてくれる高山さん。
「ヒモコンって言ってね、手にハンドルの握り入れて、自転車のブレーキを頭に通してアゴを開けるんだ。リモコンじゃお金かかるんでね、ヒモコンなんだ」
物へ着眼する視点の柔軟さは、物がない時ほど、前向きになるのかもしれない。 アイデァの豊富さも魅力の一つだ。
こちらは長年の疑問をここぞとばかりに、畳み込む。
「えっ、そうだったっけ?」
「なんでそんな事まで知ってるの?」
高山さんもたじたじになる。
奥さんがお茶菓子を持って来て、助け舟を入れる。1つ1つ、良く覚えていて、高山さんよりも詳しい。
今でこそ懐かしく話してもらったが、怪獣がブームの頃には、本業の絵筆が遠退くことのジレンマが大きかったようだ。
毎週のオンエアを繰り返すにつけ、予算と時間だけがどんどん削られていく。注文も後を断たない。
巷の怪獣はそれに合わせたかの様にみみっちく、頼りなくなる。
子供はそれを見抜くのである。
人気も下がれば、質も下がっていく。
高山さんが本業に帰ってからは、すっかり怪獣界も寂れてしまった。
もう往年の名獣は出てこないのだろうか。
高山さんの怪獣が見たい。
「オレのだからってね、どぉってことないんだよ」
生活に密着した怪獣作りを一気に減らしたS49年(74年)、高山さんは何を考えたのだろうか。
この年、2度目のブームが下火に向かい、それに合わせたかの様に製作を受けなくなる。
以後は年に数えるほどしか作らなくなった。
そうなってからのファンの訪問は思いも寄らなかったらしいが。
「オレもう、怪獣作ってないんだから、あんまり騒がないでよ。これ以上人が押しかけてきたら困っちゃう」と、さかんに照れる。
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一段落すると、作業場を見せてくれた。
300体以上もの怪獣が作られた夢工場。
ガランと奥行きのある空間が、扉の向う側にあった。
あちこち、雑多に工具や材料が並んでいる。そのすべてが意味を持っていた。
手作りの回転台。ゴムを乾燥させる赤外線ランプ。粘土ベラや、石膏分割に使う真鍮版。様々なサイズの針金が巻いてある。
少し前には何人ものスッタフが息せき切って働いていた怪獣工房のたたずまい。
間々に怪獣の首がぶら下がっていた。
角を折られたままのゴモラが、威風堂々と構えている。
20年の歳月を経て尚も戦う、アボラスとバニラ。
崩れかけたラゴンは、目も鬱ろ気に侵入者を見据えている。
この4体は改造の為、首を挿げ替えて、体だけを使ったもの。つまり撮影に不要なものが残されたのである。
まるで生き物か、剥製の様な存在感だ。
アトリエで高山家の埃が積もった怪獣はそれがとても自然に見えた。
チャメゴンの吊り人形が壁にぶら下がっている。机の上にボアを貼る前のジャガーヘッドが置いてある。
紙袋の中からは、シャドー星人マスク、ウィンダムマスク、そしてダイゴロウ一家が出てきた。これらは納品に洩れた未完成品だ。
怪獣たちは、全て当時の状態のまま無雑作にしまってあった。
これが個人作品と一線を画した唯一の点だと気が付いた。
しかし我々には大変な文化財産である。どういう理由にせよ、幼少の頃にTVや雑誌で見た怪獣たちがここにいた。アトリエの主人が説明を加える。
「石膏型なんてね、取っておくと山の様にたまっちまうから、みんなぶっ壊しちゃうんだ。ポール星人だけ、どっかにあるかもしれないよ。あれはねオレ、好きだったんだ。余分に作っておきゃ良かったけど、時間なかったからね。どっか、その辺の棚にあるかもしれないよ」
一同、またドヒャーッと驚く。
誰かが奥の方にあるオブジェを発見した。
「あれはコンピュータ怪獣だ!」
目を丸くして高山さん、「怪獣じゃないよ、それ。作品なんだ。“かなぶん・おやぶん”ってんだ」
実は古くからの友人である鷺巣富雄氏が借り出して、TV「スペクトルマン」で使っていたのだ。
意外と、高山さんを始め、現場の人はオンエアを見逃す事が多い。                 
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古くて、新しい感覚。見るもの、聞くもの、全てが我々には新鮮だった。
「こんなの、面白い?」と、奥から引っ張り出す高山さん。
ここは宝島なのか。時代を越えた物品は、タイムパラドックスを起こさせる。
それにしてもなんと物持ちのイイ事か。
「大正産れは物を大事にするからね、何でもとっとといちゃう。これなんか戦後の闇市で買ったドンゴロス(麻布・米袋等に使う)だよ、凄いだろ。滅多に(怪獣用には)使わなかったけどね。」
作品の中にドンゴロスをカンバス地にしたものがあったが、終戦直後の池袋駅前の風景だった。その時のものだったかは聞かなかったが、物のない時代を生き抜いてきた人の逞しさを思わせた。 
陽が傾いて部屋を彩る時間になった。
赤く染った家具や奇怪なオブジェ。
作業場で暗く立たずむ怪獣。
それぞれのコントラストが印象的だった。
気が付くと時計の針の音が会話と調和して、空間を止めていた。アッと言う間に時間が過ぎてしまった。
高山さんの人生の中で怪獣造型に携わったのも、きっと瞬く間に違いない。
怪獣造型と創作絵画、その喜怒哀楽を垣間見た一日だった。
何をどこまで話して、聞いたのか。怪獣の話を一通り終えてからは、日常の事件から人生にいたるまで、まるで友達へ話しかけるかの様にフランクに接してくれた高山さん。
最後に聞いてみた。
怪獣をやって作品に影響しましたか。
「そぅね、これなんか怪獣の頃の絵なんだけど、なんか似たり寄ったりでしょ」
怪獣作りは、高山さんに与えられた使命だったのかもしれない。

(※このレポートは1980年発行の同人誌に載ったものを直したものです。)


高山良策の世界 後書き

1960年代。
高度経済成長は列島に活気を与え、大人たちはひたすら働いた。
人々は満ちたりて生活に夢を求めるようになった。
オリンピック、新幹線、カラーテレビ、ビートルズ、若大将、サーフィン、ゴーゴー、グループサウンズ・・・。
溢れ出た人間のエネルギーは行き場を求めて街々を徘徊する。豊かになった反面、物がはびこった。沢山の犠牲者も出た。安保闘争、吉展ちゃん事件、公害病、ベトナム戦争、旅客機墜落・・・。
こんな背景の当時、TVのブラウン管では怪獣が暴れて、日本中の子供たちを釘付けにした。
怪獣は売れない画家が精根込めて作っていた。怒りと哀しみが同居した怪獣、その目の鋭さ。作者の名前は高山良策さんと言った。

夢の送り手だった高山さんと、受け手だった僕たちの出会いは、それから15年目の事だった。子供の頃の夢を確かめたくて、高山さんに会いに行った1980年、春。驚きと喜びを共有出来た束の間の2年間。
再び夢を思い、この一編をまとめました。



                              編集人一同


<解説>

最初の同人誌の記事は、80年発行なので、19才の時にまとめたものですが、若さだけが先行していて、93年にふたたび同人誌を出した時に、手を加えました。
いまホームページ用にその時のテキストを引っ張り出してみると、まだ少し手を入れないとしょうがなくて、いじりました。これ以上いじると出典した意味がなくなってしまうので、恥ずかしい限りですが。昔話と言う事で。
なお、80年の同人誌は「neoFERAS2号 高山良策の世界」。
93年の同人誌は資料性を高めた「高山良策の世界」で高山良策の記録を残す会として編纂しました。
高山さんが亡くなってから長く、高山家へ通う事になる面々です。
お子さんの居ない家なので、年に数回、お邪魔して、懐かしい話をしたものでした。
時に個展の準備を手伝います。
搬入、搬出の手伝い、セッティング、案内の宛名書き、掃除や資料の整理など、おばさんがやれない事をみんなでして来ました。
93年の同人誌は、高山良策展を3回、企画展として開催した六本木のストライプハウス美術館がゆくゆくは閉館し、3回をもって高山良策展を完結させる事になった流れで、作ったものでした。
本文の図版は、63年版のものです。