開田同人5


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and so on
雑感


(再録)

特撮わたくし論

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<われ思う、特撮>
 特撮ファンを長い間やっていると目が肥える反面、作品の善し悪しの判断がつかなくなることがある。だいたいなにをもって特撮作品と言うのかさえ、多様化した技術の昨今あやしいところで、特撮ファンはどこまで作品を追っかければいいのか甚だわからない。ハリウッドのすごいヤツに喝采を送りつつもセル・レンタル専門の純日本風特撮もわくわくして見入ってしまう。グッズも山ほど出回って走り回らないといけない。でも特撮ってなんだろうとつくづく思う。
 自分に限って言えば怪獣やミニチュアのファンだし、くさい役者が存在感を見せてくれれば低予算だろうとなんだろうと好きになれる。だから戦争映画やアクション映画、ファンタジー、テクニカルな部分で効果に使われている特撮……よりもだんぜん、ウルトラマンやゴジラ、ガメラ、ライダー、ミカヅキが好きなのだ。
 ステージに延々と広がるミニチュアの街なんてそれだけで感動する。ミニチュアだからこそ楽しい。そこで怪獣が暴れるんだから楽しく仕方がない。
 実相寺監督が言うところの「モノへのフェティシズム」かもしれない。実相寺さんは特撮のセットはいかがわしさこそ魅力と言う。大の大人になったれば本物と偽物の区別はつくだろう。本物とは本当の建物ということでなくて、本気で作ってある偽物のことだ。現在なら言うまでもなく特撮の手段はミニチュアよりCGの方がはるかにリアルに見えるのに決まっているが、それにつけても(感覚が古いのか)出来のいいミニチュアワークに心を奪われる。
 怪獣の縫いぐるみの人が入った体形や動きの欠点を、CGは完璧なクリーチャーにして動かす。だがそれでは、物体に神がかった心が宿ると信じて疑わないぼくには、単なるリアルアニメーションでしかなく、美味しくはない。ただし、どんなに平たんな絵であってもかっこよければいいのである。実景に馴染んでいれば。『ゴジラ2000ミレニアム』の円盤はひどかったが、雲海のガメラとイリスの戦いは文句なくすごい。でも綿の雲の上を行くガメラとギャオスの方がだんぜん好みなのだ。
 ガメラは予算があるから『ビジュアルバンディッツ』にしようか(笑)。あれには驚いた、お金がないのがはっきりわかるもの。ミニチュアを本編に馴染ませるため本編ショットをわざとミニチュアにしたり、カメラを傾けたり色をつけたり、そんな作品の勢いというか、こだわりみたいなものに拍手をしたい。低予算でも特撮への愛情さえ感じればアバタもエクボに早変わり。妖怪たちが楽しい『さくや妖怪伝』もよかった。いまどき珍しいくらい朴訥なロードムービーの勧善懲悪ものに惹かれた。童心に戻って楽しめる。ホントに、ここ数年は当たり年が続いた。
 そうなると作品の善し悪しというよりか、判断は好き嫌いになってしまう。
 雑誌の取材でも、気持ちのいい現場なら筆に力も入る。よし、この作品はおれが応援しようと記事を作る。大作でも小品でも関係ないよ。あッ、お初の皆さん、ぼくはライターをやっています。特撮関係の単行本や雑誌をやっています。

<特撮原体験>
 特撮が今みたいに当たり前のようになかった時代。テレビでは『忍者部隊月光』が好きだった。ポリエチレンの刀や手裏剣のセットで遊んだことがあります。アニメなんて言葉がなくて、子供向けの番組は総じて“まんが映画”と呼ばれていた昭和40年ごろ。『鉄人28号』でキャラクターの面白さを知り、『マイティハーキュリー』で変身(パワーアップ)の快感を知った。家が両親ともお店につきっきりだったものだから、妹が出来るまで一人っ子のぼくは、テレビにしがみついていた。年に数回の映画館は文字どおりメインエベント。母親との思い出に満ちている。『怪獣大戦争』『大怪獣ガメラ』『大忍術映画ワタリ』『大魔神』、そしてテレビではお正月から『ウルトラQ』が始まった。木馬座のケロヨンショーにも行った。デパートや遊園地で生の怪獣も見た。怪獣ブームの最盛期にはありったけの人形と図鑑を一人遊びのために買ってもらえた。
 私立の小学校に入ったとたん親に言いくるめられ、いったん怪獣を卒業した。たしかに『ウルトラマン』が『ウルトラセブン』になり、『サンダーバード』が『キャプテンスカーレット』に代わって、つまらなくなった。なんか妙に大人びた世界に「まだまだ子供でいたいよ」と思ったのかもしれない。
 昭和40年代後半、70年代。東宝チャンピオンまつり、東映まんがまつりが楽しみだった。夏休み、冬休み、春休みの大きなイベントだったから見ないことには子供同志の会話も始まらない。テレビでは『仮面ライダー』や『帰ってきたウルトラマン』『宇宙猿人ゴリ』が始まった。『マジンガーZ』『科学忍者隊ガッチャマン』も欠かさず見ていた。テレビはあいかわらず魔法の箱だった。
 そんなぼくも中学受験で本格的に特撮や怪獣から遠のく時代が来る。自称・暗黒の時代(笑)。中学・高校・大学と続くエスカレーター式の学校だったが、さっそく登校拒否をした。そのころ熱帯魚を飼っていたので、水槽越しに魚と対話することが唯一の慰めだった。腐っていたと思う。大人になっていくのがいやだったことが大きい。なんというのか、先生も親も大人たちは優秀であることにしか価値を持たないのがいやだった。
 中3から高1ぐらいのときに各地の文化祭で懐かしのアニメ・特撮の上映会が始まった。名画座に通うようになった。高2の頃、各地で知り合った同志とともに同人誌を作り始める。円谷プロや東宝に遊びに行ってみた。はまってしまった。困ったことに新作がしょぼかったから旧作に永遠の恋をしてしまったのだ。あの頃に帰りたい一心で。

<特撮・行ったり来たり>
 エスカレーター式の学校の欠点は、学年が代わっても同じメンツの入れ替えにしかならないことだ。学校がきらいだったぼくは大学には行かず専門学校を選んだ。ここだけの話、学校の先生がバイトでやっている塾があって、そこに通う生徒には前もって試験問題に限りなく近い模試が行われる仕組みがあった。それでこれ以上こんな人たちと関わりたくないと思ったのが第一の原因だったが、なにしろ勉強が嫌いだったから仕方がない。へそ曲がりでもあるし。社会に早く出たかった。
 そこでデザイン系の学校を選んだ。夏休みにバイトで国際放映に行った。『黄土の嵐』という、『西遊記』のシリーズだった。1カ月くらい泥だらけになって美術のセットを作った。その前に知り合っていた『宇宙船』の聖咲奇さんから、海外のファンの話を聞かされ、同人仲間を焚付けて積極的に上映会を企画した。
 聖さんから特撮雑誌ライターの安井尚志さんを紹介され、児童誌の編集のバイト(要は、ポジ整理と原稿取り)も始めた。3Kという言葉はなかったけど特撮現場で泥にまみれるより、デスクワークの方が自分向きと思って、あっさり特撮の現場を離れた。
 当時、同人誌の仲間が『ウルトラマン80』の怪獣を作っていた若狭新一さんのモンスターズでバイトをしていた。高3のとき原口智生さんの家に遊びに行って、帰ってきたウルトラマンのマスクがあってびっくりしたが、1つか2つ年上の原口さんがすでに映像の仕事をしていることがもっと愕きだった。ラテックスが当たり前のように部屋にあって、アーマチュアさえ自作している原口さんがなんだかすごい人に見えた。実際にすごい人なんだけど。若狭さんも原口さんも、今から20年も前から仕事をしていて、いまだに続けている。あきれるほど、すごいと思う。
 同人誌時代のことは、前にこの同人誌に書いたのでバックナンバーを参照されたい。聖さんと組んで全国のアマチュア8ミリ作家の特撮作品を上映した。東映の敷地内で仮面ライダー復活祭を開いた。開田さんたちとやった特撮大会は、まるでロフトプラスワンの特撮イベントの原点のようだった。
 そんな楽しい時期はあまり長くは続かない。師匠・安井さんはこれまた超人的にすごい人なのだが、われわれ共通の「好きな人」である怪獣造型の高山良策さんが亡くなってから疎遠となり、喧嘩した(仲直りするのに8年かかった)。
 安井さんには世話になった。必要なものはどんなものでも集めてくれた。バルタン星人の背面写真が欲しいと言ったら、「あるよ」と言って探してくれ、「ないなぁ」と言って2人していろいろ探したこともいい思い出である。怪獣三面写真がムックに載るようになった、このときのことが始まりだと思う。なにしろ誰も気にしない部分のこだわりが特撮を面白くする。それに気がついたら、本作りがとたんに面白くなった。
 安井さんがガンダム・プラモブームを起こした頃、ぼくは別の道を歩きだした。出版の世界はせまいものだから2、3年ぐらいは抵抗したけどいったん外の世界に出て、就職することにした。特撮が好きという部分はあったから建築模型の会社に入った。これぞミニチュアの究極。しんどかったですよ。賃金は安いし拘束時間は長い。たとえば1ミリの間隔で長さ30センチのラインを、50センチくらいの幅、つまり500本分、シャーペンやカッターを使っての線を引くわけです。根気が要ります。
 建築模型は2年間やった。知人が玩具メーカーにいてCMで特撮をやるから来ないかと誘われて移った。バンダイの系列です。そこで美術をやるつもりだったものの、半年くらいで組織は解散。せっかく会社を辞めたのに。家庭の事情もあって、この時期は言葉に言い表せないくらい大変だった。たいていの困難はそれに比べたら屁のようだ。
 それはさておき、その玩具メーカーの映像部門でヒーローと怪獣を作った。ウルトラマンがなかった時代だから、ビデオとオモチャをパックにして売るつもりだった。線画台、ミッチェル、モニター600まで揃っていた。線画台というのは、アニメのコマ撮りをする巨大な装置。ミッチェルは映画用に使われる35ミリのカメラ。モニター600は伝説の『マイティジャック』で使ったハイスピードカメラで、1秒間に600コマ撮ることが可能だ。そんな機材も組織の解散で無用の長物となり、仕事の後始末として3分のパイロットフィルムを作ることになった。『アイアンデューク』というロボットヒーローのビデオをどこかで見た人はいるかもしれません。フィルムと合成代で300万円くらいかかっている。ぼくはヒーローデザインと造型、怪獣の造型、セットを担当。監督を含めて2、3人しかいないけど、今見てもなかなかいいです。
 で、そのパイロットフィルムをビデオにして、企画書を書いて、あちこちを歩き回るわけですな。立身出世のよくあるパターンです。いまだに出世してませんけど。
 傍らで現金収入を得るためライター業をメインにして、書くことを学びました。いちばんの勉強は、企画を気に入ってくれた編集者が「ロボットものと恐竜ものとでもう少し煮詰めないか」と言ってくれて、何度も何度も書き直したことでしょう。学校に通うつもりで出版社に行きました。ロボットの方はマンガの原案になり、恐竜の方は小説になった。
 この頃、ゴジラは平成VSシリーズが毎年かかっていたが、リメイク怪獣を楽しみに劇場に行くとどうしても往年のキャラクター以上の格好良さには見えなかった。ウルトラマンに至っては外人が作っているので呆気にとられた。たぶんもう自分は特撮を純粋に楽しめないと思っていた。仕事になりそうでならないし。
 ある制作会社で横浜博の展示物をやるので関わることになって、大がかりなものを東宝でゴジラの美術をやっていた井上泰幸さんの会社に発注することにして、小さいものを自分が引き受けた。特撮といっても作り物にしか縁がない。好きだからいいんだけど、せっかく企画書たくさん書いているのに。みたいな不満はあった。しかも詐欺師のような会社で支払いが延びて食うに食えない日が続いた。
 たぶん不満だらけだったと思う。仕事に毒され女っけなし。独り暮らしも悲惨だった。ヨーグルトになった牛乳をなんど飲んだことか。まぁでも特撮は好きだったわけです、不純な思いでしたけど。あとで聞けば、この時期はみんな大変だったようです。昭和から平成になった頃です。
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<世紀末特撮事情>
 平成とはまた呑気な元号だなぁと思っていたら阪神の震災が起きて湾岸戦争やオウム事件があって、自分も気がついたら30代になっていた。創作は面白かったがヒットしないものだから、まず自分のフィールドで実績を作ろうと特撮の本を始めた。最初は編集プロダクションで企画を立てたが、いくら増刷しても1円ももらえない。増刷した本すらもらえない。挙げ句の果てに倍の仕事量でも原稿料が以前より安かったり。いくらなんでもと辟易した。仕方がないのでまったくフリーでやることにした。
 時あたかも飽食と言われたバブルの時代が音を立てて崩れていた。企画の持ち込みがてら『ホビージャパン』で連載を始めていたぼくは、かつて遊びに行った東宝や円谷プロでお世話になった旧作のスタッフの取材をやっていた。最初あのコーナーは考古学的な切り口だったのだ。
 そんな頃『ガメラ大怪獣空中決戦』が現れた。VSゴジラはきらいではなかったが、大人の仕事という感じがして、自分ならこうするのになぁと冷めた受け取り方でいた。ガメラは、特撮が本来もっていた泥臭さの再発見とともにセンスの好さが求めていたものにドンピシャだった。とにかく、俳優が怪獣をちゃんと見ていることだけでも、すごい映画だと思った。
 平成ガメラ以降、取材は現役の若いスタッフ相手に移行した。原口さんや若狭さんと10年ぶりに再会した。自分にしたら懐かしい人たちなので、無条件で応援した。制作の内情を知ると作品の感動も薄らぐこともあるが、そんなことは些細なこと、現場で自分がやれなかった特撮に関わっている怪獣ファン世代がいることが嬉しいし、彼らが決定権をもつ時代になったことはなににも代え難い喜びだ。
 直接・間接はあるでしょう、その後の日本特撮はガメラの影響が大きかったことと思う。ガメラありきで流れが生まれた。
 『ウルトラマンティガ』が始まって、前半は乗れなかったが中半から引き込まれた。『ウルトラマンダイナ』は最初から期待していた。期待は『ウルトラマンガイア』で花開く。過去、ウルトラマンは何度も始まっては視聴率に悩まされ終幕を迎える。人気絶頂のまま終えることになった要因の1つに、我夢、藤宮という魅力あふれる主人公を演じた2人の俳優の不世出の才能があると思う。それに第一、地球怪獣が人間とウルトラマンとともに外からの敵と戦うなんて、誰が考えるだろうか。涙なくして『ガイア』のラストは見られません。ホテルの打ち上げ会場でスタッフと一緒に見ちゃったしね。たまには善いことだってあるさ。
 『ダイナ』の川崎組の頃だから今から3年くらい前でしょうか。開田さんからお誘いを受けて、川崎さんを誘って、ロフトプラスワンでトークライブをやった。満場のお客さんを見て、こんなに特撮を好きな人がいるのかと驚いた。そのあとスーツアクターを呼んだ“影の男たち”のトークライブに誘われたが、仕掛け1つで客の入りがこうも変わるかと興味深かった。そこで、昔取ったきねづかで企画を考えた。それがロフトプラスワンで1年間つづいた“怪獣おとぎ夜話”だった。
 しばらく忘れていた「童心」が蘇る。あまりリアルな論争や演説はごめんだ。ぼくは雑誌では撮影ルポやスタッフ取材を書き、単行本では怪獣の生態や設定の謎を探ったり、資料を整理し、記録をまとめている。評論は苦手なのだ。ましてや作品を揶揄するなんてできっこない。
 トークライブはお客さんと現場スタッフをとりもつ夢の懸け橋になればいいと思った。ファンにとって特撮の現場は憧れこそあるもののふだんは縁のない世界。満員電車に揺られて会社に通い、家ではすっかりお父さんになっている人も多い。特撮は、心の癒しである。逆に、現場に入ると定時から定時、残業を含め撮影所から一歩も出られないのがスタッフの現状だ。互いに接点もなく、それぞれの世界にいる。ぼくはライターという気楽な身分からどちらの世界へも入れる。大勢のファンを撮影所に呼べない代わりに撮影所のスタッフをロフトプラスワンに呼ぶことは可能だ。これなら双方向の意見の交流が図れる。まるでお見合のようである。お見合、やったことありませんがね。
 ご対面はうまく行った。作品を応援する気持ちも膨らんで私設HPがたくさん出来た。歌舞伎町の常連になった地方からの人も多い。壇上にいると、客席はよく見える。そこにはかつての自分と同じようにこの時とばかりに目を輝かせる、ある種の根暗なファンもいる。そういう人にも発言してもらいたい。特撮を好きならもっと好きになればいいと思う。子供に帰ってみんなで変身! もやった。ネタバレ禁止なのに監督自ら話しちゃったり、スーツアクターの見事な裸体も披露してもらえた。

<これからどうよ、特撮>
 取材で何度か通った東宝の現場で、『ゴジラ×メガギラスG消滅作戦』は手応えが十分だった。まず本編と特撮の両監督が仲がいい。これはすごいことなのだ。年齢が近いこと、2人とも助監督時代から知っていることも幸いした。長く東宝の特撮映画は「本編と特撮の2本立て」と言われていた。ファンが言うのではない。スタッフが苦笑混じりに言うのだ。手塚昌明監督は、見るからに日に焼けて助監督時代にそうとうがんばったことが伺える。信頼できると感じた。一方、鈴木健二さんが特殊技術を担当して現場が明るくなった。世代の若返りは必要なことだと思う。
 案の定、作品も面白く仕上がった。ゴジラがやっと帰ってきたという気がする。特撮への愛情に溢れた作品になった。CGが増えてもミニチュアへのこだわりは健在だ。怪獣もどっしり物理的な迫力を見せている。なによりも話が面白い。子供へ向けた優しい映画だと思う。しかもゴジラでは不可能と言われたデートムービーになっている。マニアだって楽しいのだから、何も言うことはない。
 金子『ガメラ』から始まって手塚『ゴジラ』まで、この5年は本当に楽しめた。平成13年、西暦01年。“円谷英二生誕100周年”記念作品に新作のウルトラマンが予定されている。『仮面ライダークウガ』もシリーズ化して新作が登場する。話題作『鉄甲機ミカヅキ』も完成して放映されている。6、7年前には考えられなかった百花繚乱のにぎわいである。そしてどうやらあの人がナニを撮るらしい。それは先のお楽しみとして。
 金子さんと手塚さん、ともに40代半ばで、50年代生まれのキンゴジ世代。『キングコング対ゴジラ』がゴジラ初体験で共通する。そういえば開田さんや安井さん、聖さん、池田憲章さんもその世代だ。20年以上も前に安井さんたちが朝日ソノラマからファンコレシリーズや『宇宙船』を世に送り、児童誌を大伴昌司から引き継いだ。ぼくら60年代生まれのウルトラ世代は彼らの牽引車に引っ張られた形である。
 そして今度の金子・手塚のG決戦。いえガメラ対ゴジラということで。キンゴジ世代、しぶといなぁ、強いなぁ、あなどれないなぁと心から思う。特撮への想い、怪獣への想い、それが悔しいけど、鼻の先の分だけ、キンゴジ世代の方が上かしらと実感(笑)。
 さぁいでよ、彼らへの挑戦者たち! もたもたしている場合ではないぞ。ぼくもがんばって本を作るので。もう少し、いやまだまだ、特撮は楽しめそうだ。


                     <特撮が来た! 00年12月30日発行 より>