開田同人4


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雑感


(再録)

『ガメラ3』雑感~役に立たない2、3のこと

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 『ガメラ3』は、見応えがあった。苦労の跡まで偲ばれる映画って滅多にお目にかかれないものだから、見るたびに「もったい……」気持ちでいっぱいになってしまう。取材で特撮映画に関って映画作りの側面を見てきたりすると、たいていの特撮を身びいきで見てしまうものだが、『ガメラ3』はお世辞を抜きにしてもよくやった映画だと思う。いや、今回は機会がなくて現場には一度も行っていないから、そんな親しげに言ってはいけないな。仮に、撮影前にスタッフの足踏みが揃ってなくて……なんてことを風の便りに聞いたとしても、結果には満足。結果を見せることが映画だとしたら、観客の一人としてやっぱり満腹できたのだ。
 先般、『電撃ホビーマガジン』の取材で旧作ガメラ監督の湯浅憲明さんに会った。この雑誌では少し前に新ガメラ脚本の伊藤和典さんにも会っているから、読者にはさしづめ新旧ガメラ・スタッフの世代背景や人物像が俯瞰できる作りになったかと思う。個人的にも情報や裏話は専門誌に任せて、スタッフの人となりが探れればと思っていた。
 伊藤さんは、ネコ好きのほとんどの人がそうであるようにデリケートな人だった。なかなか本音を見せない、わけではないのだが、今回のガメラに関して言えば製作背景がデリケートだっただけに、やはり言葉を選んでしゃべってくれた。バランが好きだと聞いて、なるほどなぁと思った。初期の怪獣映画の猟奇っぽさを『ガメラ3』に感じとることができるのだ。というか、今回もう完全に『キング・コング』だなぁと思った。あるいは、和製キングコングの『獣人雪男』に近いものだった。怪獣と少女の関係があって、姦通した双方は引き合い、または乖離して、双方の関係の破局を前提に物語が佳境に入っていく。怪獣が架空の造形物だけに、双方の対峙は皮膚感覚にも敏感に伝わって、とてもエロチックな気分に浸れる。
 例えば、今でも記憶が鮮烈になって話題に上がる、お祭りの見せ物小屋がある。もう見ることはなくなってしまったが、あの年齢不詳の女性の謎さかげんはいったいなんだったのか。鶏の頭をもいでは生き血をすすり、蝋燭を口にあてがって溜まった蝋を一気に噴射する迫力、体に巻き付けたヘビを観客に向ける大胆さ。たった1つの一座が全国を巡業していたのか、それとも古くから出し物のパターンがあって全国に受け継がれたのか、なぜかわれわれは同じものを見てきている。それは蜃気楼のように幻想的で、出し物がどういう脈略でつづられたのか記憶が曖昧ながらも、しかし今さら詮索をするまでもない、たまさか思い出してはニンマリするポンチ絵のような淫靡な記憶が中年以上の人にはあるだろう。そんな古くさい土着的な見せ物小屋をソッと覗くような怪獣と少女の関係が、『ガメラ3』に描かれていたように感じた。
 ちなみに伊藤さんは、異形のものは好きだと言っていたが、つけ加えるように、怪獣と少女のえっちな関係は金子監督のテイストだと笑って言われた。
 だいたい動物の世界ではメスが強い。しかしここで怪獣をオスに当てはめれば、劇中の少女には雌雄として肩を並べるような成熟さはなく、そればかりか処女性をもった幼い存在になる。決してメスがもつ、オスを越える気丈を、彼女たちは(当初は)もっていない。そこでオスだのメスだの低レベルの発想を止めて、怪獣を神の位置にまで引き上げてやると、動物界の雌雄とはまたちがった意味あいが成立してくる。神と巫女が一体化する儀式は全国にあるが、女性が強さに目覚める前の処女期にもつ清廉さ、神秘さが、神たる怪獣のお口に合うことは事実のようだ。神の力を得ようとする女と、人間の力を得るために女をよりしろとする神たる怪獣との関係の前に、われわれ平凡な男どもはただ指をくわえるしかない。『ガメラ3』でも綾奈を守ろうとする少年の剣はあまりに貧弱で役に立つものでなかったでしょ。小さなちんちんだ、と思った。イリスの触手に比べて。
 ところで、あの見せ物小屋の正体不明の女性は、すでに怪獣と一体化した存在なのかしら。まるで宗教者のような自信に満ちたパッションと底知れぬエロスを、あの人は発散していた。ちょっと今でも惹かれています。
 それはさておき。そのような淫猥な想像力がかつての怪獣映画につきものだった、ということをここでは言いたいのだが、伊藤さんや金子さんたち四〇代の原体験となった50年代の初期の怪獣映画は、町外れの境内のさらなる片隅でやっていた見せ物小屋に似た危険な香りに満ちていて、『ガメラ3』に受け継がれたと自分では感じている。
 かみ砕いて言えば、怪獣と少女の距離が尋常でなかった。かつてのゴジラもバランも雪男も、日本のどこかの閉鎖地域で神として祠られていて、生け贄に処女が貢がれていた。あるとき文明との接触があって、今までのバランスが崩れ出し、怪獣は少女を見失って(文明と少女の接触は処女性の消失だ)、怒りに身を任せた怪獣は行き場を亡くして破局していく。そのような昔の怪獣映画にあったテイストを、『ガメラ3』に感じとる。
 綾奈とまぐわって急成長するイリスの破廉恥さ。あの触手はまちがいなく女性器に挿入されていたはずだし、もきゅーとした顔のイリスがだんだんと甲冑を身につけていく様は男性器の勃起を思わせる。そりゃあ一度知った味だもの、イリスは綾奈を追い求めるわな。綾奈はそれゆえ、潜在的な強さを秘めた生粋の処女である必要があった。その暗喩のため、彼女の処女性を脅かす存在があの村の親戚の男たちに託される。たぶん夜這いはあったろう(笑)。食事のときの親父の目つきや綾奈の肩に手をかける兄ちゃん。地球は狙われている……今! というキャッチがあったけど、生活の中のエッチが見え隠れしていました、監督。素足を見せるキャリアウーマンたちもとても開放的でエッチですけど、けっこう、黙々と食事する家庭の表と裏の生活臭は印象に残ります。それでたぶん、イリスに惨殺されたんだと踏んでいますが(アッ、処女であることと処女性は別物です)。
 さて、一方の浅黄は、すでに『ガメラ2』で、父親に嘘をついてスキーに出かける描写があったくらいだから、たぶんもう処女ではなくなっていたのだろう。勾玉も割れるし、ガメラも心を通わせないはずである。だから今回、ガメラがよけいに健気に写るのだ。なんのため、誰のために戦うのか。目的がはっきりしているイリスに比べ、ガメラは不憫である。なんのためにそこまでやるのって、片思いの切なさを感じます。ガメラと浅黄の距離が、もう絶望的に深い溝と高い壁にはさまれていて、浅黄はガメラの名前を呼ぶことすらできません。ガメラもただ(うるるる……)とノドの奥で唸るだけ。距離をおいた方が楽なのに、ああかわいそ。それでこわい顔になったのか、ガメラ。
 『ゴジラ』が半世紀前に生まれた時、映画会社の扱いとしては戦前の化け猫映画の延長戦だったため、宣伝部は怪奇色を出したスチールを用意していた。本多監督の意識の高さから反戦映画とも受け取れる名作に仕上がったものの、『ゴジラ』は蓋を開けるまでB級映画、色物の扱いであったことは否めない事実だろう。新聞は当然のように色眼鏡で批評した。そんな風潮にあって、逆にマスコミに乗じたのが雪男やバランだった。
 61年の『キングコング対ゴジラ』で、女性は胸をゆすって怪獣を誘惑した。高度成長期にあって男女の立場が逆転してしまったのだ。土着的な淫靡な怪獣映画はこのときもう行き場がなくなっていた。唯一、『ウルトラQ』の『変身』が、怪獣と少女の関係を想起させるようなものだった。やっぱり伊藤さんも金子さんも、土着的な怪獣映画は好きなんだと思う。山林に潜むイリスなんて、まさに『変身』の巨人だものね。
XDDFGG.jpg 60年代後半になると、水野久美サンの科学者が圧倒的な母性で怪獣たちを翻弄する。すでに怪獣は人間の視点レベルに墜ちてしまった。その結果、『怪獣総進撃』で怪獣は人間の家畜となり下がり、70年代の東宝チャンピオンまつりで完全に玩具扱いされてしまった。60年代後半に生まれたガメラは初期の東宝怪獣ものを思わせる荘厳さが怪獣そのものにあった。このとき、少女の役割を担ったのは少年だった。怪獣と少年は、高度成長期を象徴する。その高貴な少年を、顎であつかったのが教育ママゴンだという構図はなかなか象徴的だ。ウチも、そうだったし……。
 ところで、50年代の怪獣映画を見て育った怪獣映画の監督で金子さん以前に、大森一樹さんがいる。『ゴジラvsビオランテ』(91年)でデビューした三枝未希は、30年ぶりに、怪獣と少女の関係を表す構図を見せた。しかしゴジラと未希はけっきょく意志を通じ合える立場になかったようだ。未希は男を選び(『vsスペースゴジラ』で)、ゴジラはケムール人のごとく自慰の末に消滅していく。大森監督のまいた種は身を結んだのだろうか。いつか聞いてみたい。
 金子監督のこだわりが、古典的な怪獣映画の伝統を守ったように感じている。半世紀前の古典に固執する必要はないんだけども、その手のファンにしたら、嬉しい。
 ということで、話が冒頭に戻る。湯浅監督との対談はとても楽しかった。ガメラのような人、という印象だ。そのとき、自分は少年になったような気がした。懐の深い温かいオジサン、そういう人が作ったガメラだから、いま新生ガメラを応援できるのだと思う。
 そこで、『ガメラ4』を考えてしまった。やはりこの際、明るく楽しい怪獣映画を復活させて欲しい。そのために『ガメラ3』のエンディングで、ギャオスの大群を迎え伐つ手負いのガメラに、強力な援軍が現れる。旧作のオマージュ、びんびんに出して。日本で死んだハズのあの巨大なトカゲである。甦った巨大なトカゲは、この地を故国と思って羽の生えた怪獣どもを一掃する。なにがしかの強力な光線を使って。って、ソレ、どこかで聞いた話じゃないか。ま、いいか。
 旧作と新作、どちらも好きである。甲乙なんてつけられっこない。世紀末、渾然一体となった新旧キャラクターの住む世界だから、なんだか楽しくてしかたがない。怪獣映画だけが、時代を越えて存在し、ゆっくりと身をおいて楽しめる魔法のゆりかごなのだ。


                     <ガメラが来た4 99年7月3日発行 より>