開田同人2


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and so on
雑感


(再録)

『ガメラ2 レギオン襲来』私見 怪獣を作った男たち

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 『ガメラ2 レギオン襲来』は、じつにパワフルな映画だった。日本映画をきらう人はよくアメリカ映画のパワーに勝てるかなどというけれど、『ガメラ2』のパワーは感動的だ。よく練られた設定に準じた事件の積み重ねが、まったく息切れすることなくトントン拍子で展開して、怪獣の出現がドラマに巧くかみ合った。
 旧来の怪獣映画は例えば、終盤の盛り上がりのために1時間を我慢するみたいな暗黙のお約束事があったが、『ガメラ2』はまばたきする間もないほど、全編に盛り上がりがある。芸達者な役者たちの生き生きと演じた姿は、正直いって身震いするかっこよさだ。永島敏行は、あんまり好きな役者じゃなかったけど、『ガメラ2』で好きになってしまった(笑)。これで永島に、日本アカデミー賞が行かなかったら、日本映画界に断固絶望するぞ。
 自衛隊を出しすぎという意見もあるが、平和を願う人間が、平和を守るための力を認めなかったら偽善である。弱いから力に憧れ、平和が欲しいから、力をつける。きれいごとだけで、大事な人は守れまい。憲法9条をどう読むかを論じているのではなく、有事が起きた際の“if”をどう描くか、ということなのだ。超兵器をもつナントカ隊を出さずに、人間の強さを描いた演出者の力量が、あの映画のすべてだと思う。そう、人間を守る人間の強さと優しさ――見終わった後、爽快に感じたのはまず、この点だった。
 ところで、『ガメラ 大怪獣空中決戦』(95年)と、『ガメラ2』を比較して好き好きをいう傾向があるが、『ガメラ3』が出そろって金子作品として3作が完結しない限りは、筆者はそれぞれに点数を付けるなど、拒否したい。
 あえてあの映画にいうことがあるとすれば、仙台で子どもたちが焼け焦げたガメラに祈りを捧げるが、その複線に子どもたちをそこまでさせる意味付け(家族がレギオンに殺された、という悲痛な部分)があれば、理屈っぽい人にはわかりやすかったはず。それと復活ガメラが巨大レギオンの下に駆けつけて雪辱戦をする部分が、首都防衛戦の攻防はあったにせよ、ちと長い。ウルティメット・プラズマもせっかくだから一言いうと、どこかに説明的な台詞が欲しかった。ついでにいわせてもらえれば、浅黄(藤谷文子)の出番が少なかった(笑)。
 ここまで書いたからいうけど、『ガメラ1』よりも『ガメラ2』のほうが、自分の嗜好にあっている。とすれば『ガメラ3』をはやく見たいというのは、人情ではないか。東宝が、『モスラ』で怪獣映画ではないファンタジー路線のシリーズ構成をしていくと断言しているいま、大作怪獣映画の王道は、残された『ガメラ3』までの道をたどるしかない。金子監督は記者会見で、『ガメラ2』を、怪獣映画の枠を超えた大作にしたい、と語ったが、この映画こそは、怪獣映画の醍醐味が爆発した怪獣映画の大作だったと、いいたい。
 さて、本誌は『ガメラ2』の同人誌だ。『ガメラ2』のことを、商業誌にない表現で書かねばならない。いろいろ考えたが、ほかの執筆者たちとダブらない内容にしようかと、いささか自分のことを含めて、裏話を書こうかと思うのだ。
 筆者は、模型雑誌『ホビージャパン』で、担当の伊藤克仁氏とともに『ガメラ2』を応援するキャンペーンを続けてきた。大映の撮影所に通って、伊藤さんと2人で、いかに模型的な見せ方をするかで頭を悩ませた。結果的に、原口智生氏のいる造形スタッフルームに行く機会が多くなったのは、原口さんの人柄もあるが、雑誌の性質上の切り口でもあった。モンスターズの若狭新一氏、ビショップの品田冬樹氏の所へも、同様のコンセプトで伺ったわけである。今回は、この3人の、インタビューには載らない、昔話について書くことにした。以下、無礼講であることを先に断って。

 話は18年も前に遡る。いまはなき日劇(現在のマリオン)で『ゴジラ大全集』という映画の興行があって、そこに通った高校生時代のわれわれが、ネオ・フェラスという怪獣同人誌を作った。現在、この業界で生き残っている、間宮尚彦、會川昇、山本直樹、杉田篤彦、元山掌、勝又諄、などはこのときの仲間である。
 そのあと筆者は、『宇宙船』の聖咲奇氏の紹介で、安井ひさし氏と知り合って、『てれびくん』のバイトを始めた。安井さんは、事実上、筆者にこの世界のノウハウを教えてくれた師匠にあたる。安井さんの影響は大きくて、彼がいなかったら、復活ウルトラの第3次怪獣ブームや、バンダイと講談社を結びつけたガンダム・プラモブームは、起きていなかったと、断言できる。
 安井さんとはウマがあった。というか、2人とも造形物が好きだったので、意気投合して造形談義に花が咲いた。『てれびくん』の仕事を夜中までやって、タクシーで千葉の安井さん宅まで行って、いろいろ見せてもらい、明け方仮眠して、朝には2人して、都内の仕事先に戻った、というパターンが何度も続いた。まぁこちらの方は大した仕事ではなかったが、あのときの安井さんのバイタリティーは、いまもって誰も真似はできまい。
 そのころ、高山良策さんの所へ出入りするようになった筆者は、安井さんの注文で高山さんがラゴンや大魔神のマスクを作っていたのを恨めしく思っていたが、あるとき完成したマスクを安井さんから、君の分だ、といってもらったときは、飛び上がらんばかりに喜んだ。そういった寛容なところが安井さんの人柄のよさだった。
 各地の同人誌の連合で、東映の敷地を借りて、『仮面ライダー』の上映会をすることになった。そのときの実行委員を探して、品田さんと出会った。品田さんはそのころ、神保町の銀英社にいて、『ファンロード』という雑誌を作っていた。ケダマンとあだ名されていた伊藤秀明さんの下で、イラストや記事を書いていたらしい。らしい、というのは、筆者が『てれびくん』の仕事の合間に訪ねていくと、いつもいないからだ。伊藤さんに、品田くんの机で待ってればといわれて、雑多になった窓際の机で時をつぶしたものだった。編集部といっても、彼の机の周辺には、Gボンド缶(それもハケが入ったまんまで蓋が閉まらない)、アセトンの入ったコーラ瓶、ラッカースプレー、ラテックス、ウレタンのブロックなどが散乱している。異様なシンナー臭に、山のような雑誌。待ちくたびれて、彼のアパートが白山だったので、何度か訪ねていくこともあった。なにしろ仕事場も自宅も、雑多なのが、印象に残っている。自分の部屋も似たり寄ったりだったが。
 安井さんが『アンドロメロス』という『てれびくん』用の企画を立てて、メロスだったかウルフだったかの、胸のバッチを作ることになった。品田さんを引っ張って、『てれびくん』編集部へ連れていったのは、単に安井さんに紹介するつもりだったが、そのバッチを彼が作ることになった。翌日早々、粘土原型からFRP樹脂で、きれいに作ったバッチを完成させて、安井さんともども、彼の手際の早さと巧さに驚きの声を上げた。
 『仮面ライダー』の上映会は、2回やって大盛況だった。どっちの回だったか忘れたが、オープニングフィルムを作ることになって、われわれもアマチュア・フィルム・メーカーの仲間入りになった。さっそく銀英社の屋上の受水槽の上で、仮面ライダーが見栄を切るのだが、すぐ下に予備校があって、見おろすとみんなが注目している。そうなると中の役者(仮面ライダーファンクラブの人が入った)も張り切って、着替えもなしに、そのままの格好で次のロケ地に行く始末だった。たしかトカゲ怪人に品田さんが入っていたので、彼もその縫いぐるみを担いで山の手線に乗って、みんなしておかしな格好のまま、どこかの墓地で続きを撮った。
 このとき、撮影に加わったのが、品田さんのよき相棒となる山部拓也氏だった。彼もトカゲ怪人を自作していて、それを着て演じてくれた。筆者と同い年の山部くんは、怪獣の縫いぐるみを作ることと同じように、それを着ることが大好きだった。
 10年ほど前、モデラーの上松辰巳氏の紹介で、玩具メーカーの特撮パイロットフィルムを作ったことがある。そこで美術を担当した筆者が、4つ足怪獣を作ったので、山部くんに見に来ないか、と誘った。怪獣を前に、彼はほォ~と感心したかと思うと、ちょっと失礼といって、それに入ろうとするのだった。ちょっと失礼といって帽子をかぶるのと同じ感覚なのが可笑しかった。
 縫いぐるみを着ぐるみと称したのは、安井さんだったが、着て遊ぶ、かぶって遊ぶ、というのがまだ新鮮な時代だった。安井さんが、ドンポスト・スタジオのクリンゴン星人のマスクをくれた。あまりに出来がいい上に、これ人毛だよだなんていわれたものだから、そのうちこわくなって山部くんにあげてしまった。最近になって、若狭さんが狼用の最高級ボア(人工毛)をアメリカから仕入れることになって、サンプルを見せてもらったが、まさにあのときの毛並みだった。たしかに、いくら出来のいいアメリカのおもちゃでも、人毛を使うわけがないのである。安井さんは知ってて、筆者をからかったのだろう。
 安井さんも品田さんも筆者も、仮面ライダーの魅力は、マスクからはみ出ている髪の毛だよねなんていっていた。完璧なものよりも、ちょっとチープなものの方が楽しめるといったところだろうか。
 『仮面ライダー』の上映会の当日は、アトラクションもやった。品田さんがV3に入った。ゲストに来てくれた宮内洋氏に、本当のV3はもっとカッコイイといわれたが、あの衣装は東映から借りたものだった。それとも出っ張った腹のことをいったのだろうか。現場の人は、ファンが楽しむチープさを微塵も感じてないのは、考えてみれば当たり前な話だった。怒られないだけましだった。
 品田さんと山部くんは、着て遊ぶ、かぶって遊ぶ、それに、作って遊ぶという点で、意気投合して、このあと、2人はレインボー造形企画に入って、本格的に怪人造形にかかわった。ビルトアップに移ってからは『ゴジラvsビオランテ』(89年)などの劇場作品の怪獣を作り、つい先年、自分たちの理想を求めて、ビショップを旗揚げした。巨大レギオンは、ビショップになってからの仕事だった。
 町工場のようなこじんまりとしたビショップは、あいかわらず雑多ではあったが、彼らの夢が感じられて輝いていた。
 あるとき、安井さんが歌舞伎町で買ったという裏本を見せてくれた(もう時効だろうか)。そこで、すぐに品田さんと、歌舞伎町に行くことになった(爆笑)。裏本は、こわいお兄さんたちがお店の奥で売っている(いまは、知らない)。そのことを、歌舞伎町は恐い所だからって、いわれていたのだ。武道に造詣のある品田さんを頼りにしていたら、なにを思ったのか彼はプラスチック製のヌンチャクを鞄にしまうのだ。それ、役に立つのかって聞けば、取りあえず格好だけはつく、というあまり説得力のない返事だった。
 『お昼のスーパージョッキー』という番組だったか、“奇人・変人コーナー”に、品田さんは、ヌンチャク男として出演した。といって、背中の傷を見せてくれたことがある。ヌンチャクに釜をつけたて回したのだそうだ。この男、大胆というかなんというか。
 しかし大胆な上に繊細なところがあって、見た目の大柄なわりに、とってもシャイである。その本人の性格が、怪獣造形にも表れている。巨大レギオンは、品田・山部コンビほかの何人かによる造形だが、ダイナミックな直づけ造形と、繊細な内部の仕掛けを含んだ役者の内包などは、昔から品田さんがお手の物としていた。筆者などは、巨大レギオンの気の利いたバレ隠しに、マスクからはみ出ている髪の毛を感じてしまう。
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『仮面ライダー』の上映会のあと、2回目の“特撮大会”で、ヒーローのマスクを展示することになった。展示だけじゃ、なんだか見せびらかしているようでイヤだったから、お客さんが、さわろうがかぶろうが自由にした。このときのコレクションは、安井・品田・山田の連合だった。
 某社の怪獣倉庫の人と仲良くなっていたので、お客さんにプレゼントできるジャンク品をもらいにいった。戦闘員のベルトとかブーツとか、なんだかわけのわからない備品をもらって、喜んでいた。見ると、棚の端っこに頭のフードのないハカイダーマスクが置いてある。おそるおそる聞けば、あっさりと、捨てるんだとのこと。ライダーマンも片目がなくて、ジャンク寸前だった。それらがもらえたのは思ってもみなかった収穫で、喜んでライダーマンをかぶろうとする品田さんの頭の方がマスクより大きくって、悪いとは思ったが吹いてしまった。
 “特撮大会”では、品田さん、破李拳竜氏がアトラクションをやることになり、ライダー1号・2号を作ることになった。このときのスーツの裁縫は、品田さんの母上の手になるものだった。筆者は、桜島1号・2号を想定してグローブの袖の長さや色を同じ深緑に塗って彼に渡したのだが、当日になって見ると、彼のライダー2号は、袖は短くメタリックグリーンに塗られていた。彼の好きな2号はこの色だといわれた。
 このときのマスクの1つは、原口さんが作ったものだった。もともと安井さんはけっこうなコレクターで、小道具やマスクを色々もっていたが、仮面ライダーがなかったので、原口さんに作ってもらうことになった。
 原口さんはそのころ、ハリーハウゼンなどの人形アニメのアニモデルに凝っていて、海外映画の8ミリフィルムを何本かもっていた。同人誌の上映会で使うフィルムを借りるために、何度か伺った。彼の所にも、ウルトラマンのマスクはあったが、本棚にひっそりと置いてある。かぶって遊ぶ、われわれとは、違うのだ。これをオシャレというのだろうか。思えば、いちばん最初に遊びに行ったとき、筆者はそこで、ラテックスというものを初めて見せてもらって驚いた。型抜きも直付けも知らなかったから、ラテックスをこねれば、怪獣が出来るのだとばかり思っていたのだ。
 ご親戚が東宝の整音技師にいた関係で、子どもの頃から東宝特美に通っていた原口さんは、円谷プロの『スターウルフ』(78年)をバイトで手伝っていたり、人形作家の手伝いをしていたり、すでにこの道のプロだった。それに考えも熟成していた。
 ガメラのムックでも見れる、原口さんの端正な顔の下には、彼が幼い頃から職人たちの姿を見て受け継いできた、職人気質の腕と根性が、隠されている。事の善し悪しを理にあってはっきりいうので、ともすれば口が悪いのかと思いきや、そこは根底に隠された“好き”が見え隠れするのだ。いまもそうだ。だから、技術もさることながら、彼に任せればなんとかしてれる、と思って仕事を頼む人は多い。
 学生だった頃の原口さんは、安井さんたちの同人『怪獣倶楽部』の最年少会員だった。『怪獣倶楽部』には、竹内博さんが主催して、安井さん以下、池田憲章、開田裕治、中島紳介、金田益実ら各氏、いまでも大活躍のそうそうたる人材がいた。そのころ円谷プロで企画や守衛をやっていた竹内さんが正月も1人でプロにいるので、原口さんが家のおせち料理を差し入れした。そういうやさしいところもある。
 仮面ライダーのマスクに話をもどすと、安井さんの注文で2個、原口さんはマスクを作ることになった。その原型は、第1回“特撮大会”をやったときのスタッフのものだったが、じつは先に、品田さんが原口さんに複製を頼んでいたものだった。けっきょく安井さんの注文分が先になってしまったので、うちに来た品田さんは、おれのマスク……と泣き顔だった。
 “特撮大会”のアトラクションでは、“おれのマスク”をかぶって、品田さんがライダー2号を演じてくれた。職人に仕事を任すときは、せっつかなければダメだという教えがあったようだ(これも、いまでもそうらしい)。
 あるとき、原口さんを、高山さんの所へ誘った。高山さんの所へは、いろんな人間を連れていった。怪獣の残骸や資料や台本などがあったので、連れていく人は、欲しい!などといわない人を選んでいた。
 原口さんにしてみれば造形が好きだった分、初対面の高山さんは憧れだったに違いない。5年ほど前に『高山良策の世界』という同人誌をリニューアルして発行したが、そのときに高山さんのところでの録音テープを何本か再生してみた。そのうちの1本が、このときのものだった。
 いまでこそ、特殊メーキャップや造形の第一人者になっている原口さんだが、高山さんを前にして、声が震え、胸がいっぱいになっている。そのときのピュアな感動が、彼の技術の基底に残っている。
 今秋開催された第2回「怪獣の父・高山良策展」用の展示に、プラモデルショップM1号の西村祐司氏が協力することになった。西村さんはせっかく遠くからお客が来るのだからと、高山さんが作った大魔神マスクの複製を、当日限定で販売することにして、原口さんに塗装を頼んだ。開催も間近になって、原口さんから筆者の所へいきおい電話があった。高山さんの作りものに色を塗るなんておこがましいことだ、とさかんに恐縮している。商品だから割り切ればといっても、自分を納得させる答えを探している。
 いつだったか、操演用のガメラを手にした原口さんが、ふと甲羅を差して、高山良策のような色使いになったよ、と笑っていった。昔の撮影現場で実物を直に見てきた彼にとって、偉大な先輩は、いつまでもたのもしい存在なのだろう。
 『ガメラ』の造形スタッフルームには、1のときも2のときも、何度となく足を運んだ。行く度に、日増しに造形物の発注が増えるので、ぶつぶつ文句をいっていた原口さんだったが、それでもまったく手を抜かないで、注文通りに作ってしまう根気とセンスの良さには脱帽するしかない。
 ガメラもギャオスも、原口さんの技術とセンスの賜物だが、どこかに愛情をこめた旧作へのオマージュが入っている。平成ガメラは、新作を旧作の延長線におかずにスタートした点が成功の原因だったが、旧作に媚びない姿勢は新鮮すぎて、旧作スタッフには歯痒かったに違いない。でも、あえていうが、愛情をこめた旧作へのオマージュなくして、いまの怪獣ブームはありえない。『ガメラ2』のときの、2周りほど小さくなったガメラヘッドを前に、原口さんは自分が子どもの頃に見た『大怪獣決闘ガメラ対バルゴン』(66年)の撮影用のガメラ(エキスプロ製作)を参考にした、といっていた。
 原口さんが作ってくれた2個のライダーマスクのうち、安井さんの旧1号ライダーのマスクの色が違った。写真を見比べていた安井さんは、これよォ~といって、言葉が続かない。そのうち、若狭さんがリペイントすることになった。それも当時のエキスプロの三上睦さんたちが起こしたコスモプロに行って、色の調合を聞いてくるというのだ。若狭さんはそのころから実証主義で、行動力があった。しばらくして出来上がった1号はというと、それはまごうことなく、新1号ではないか。どこでどうなったのか。
 原口さんの学生時分の先輩に、土屋影梨子譲がいる。土屋さんは、『ゴジラ画報』(竹書房)以来、男の怪獣ファンに書けない切り口の記事をお願いしているが、じつは彼女は当時、和光大のマン研だか映研で、原口さんの親衛隊を作っていた。女嫌いだった原口さんは迷惑がったのかもしれないから、これは完全な余談である。このときの研究会に、劇団☆新感線の逆木圭一郎やマンガ『奇生獣』の岩明均がいる、そうだ。
 原口さんは、高井戸の実家から独立してからは、青梅の米軍アパートで、モンスターズの若狭さんと、同じ屋根の下に住んでいた。このアパートは平屋だが天井が高く、造形にはもってこいだった。原口さんが移り住む前の『アンドロメロス』のころに、安井さんに連れて行っってもらったが、到着までが大変だった。青梅線は単線で、無人駅で降りて、車で迎えに来てもらう。夜ともなれば、辺りは深淵の闇に包まれ、ときおり米軍機がうなりをあげている。こんな寂しい所で、よくやれるものだと驚かざるを得なかった。若狭さんは、にぎやかな浅草の生まれなのに。きっと原口さんとの同居生活が飽きさせなかったのだろう。このころから、原口さんは、特殊メーキャップの腕を上げていった。
 原口さんが、渋谷のマンションに、仕事場謙住居を構えたのは、結婚してからなのだろうか。仕事場は、歴戦のライフマスクが並んで、仕事用具も整理が行き届いている。奥さんは、平成ゴジラシリーズで操演をやっていた金子ゆうさんで、テレビの特番で仕事を紹介されて、覚えている方もいるかと思う。いまはもちろん原口姓になっているが、なんでも語学留学されているとか。それで原口さん、大わらわの『ガメラ2』の現場から、クリスマスだけはさっさと国外に飛んでいった。
 原口さんのマンションには猫がいる。真っ黒いから闇太郎。壁には、大蔵映画の怪談映画のポスターや妖怪の人形たちがならんでいる。そういったものを語るとき、嬉しそうにはにかんで、目が輝く。海ピロリン(三目入道)が、なぜかガメラスタッフの間で流行ったのは、原口さんが大映の妖怪映画が好きで、『ガメラ画報』の取材で現場に来た高貴準三氏と、その話で盛り上がってからだという。ついにはソフビ人形を作るスタッフまで出る始末だった。
 『ガメラ1』が終わった頃、『絶対ゴジラ主義』(角川書店)の表紙撮りで、M1号の西村さんの所へ行くことになった。『ゴジラVSデストロイア』(95年)で、ゴジラが死ぬことは前もってわかっていたが、新作関連の書籍ではないので、1カ月早く出せる代わりに映画の宣伝材料が使えず、そのためM1号の骨ゴジラを表紙に使おうと考えたのだ。ゴジラが死んだら、たぶん骨になるだろうと、踏んでいたからだ。
 M1号へは、カメラマンの斉藤純二氏の車に便乗するのが習わしで、この日は、原口さんも付いて行くことになった。斉藤カメラマンは、『ガメラ2』では、スチールカメラを大映から頼まれることになったが、原口さんとは知己だったので『ガメラ1』のときにも、ガメラの特写に足しげく通ってくれた。そういったことが『ホビージャパン』の紙面に反映した。
 福島行きの当日、あいにく筆者は風邪をひいてドタキャンするはめになったが、西村さんに原口さんを紹介したことがきっかけで、のちに1000体に及ぶ兵隊レギオンの発注がスムーズにいった。西村さんの機動力と的確な仕事は、特撮現場のスタッフも感嘆の声を挙げていた。あそこまで作ってこそ、映画の支えになるわけだ。水を得た魚のように、M1号のガメラキットは、どんどん加熱していくばかりである。
 『ガメラ1』を撮った東宝ビルトは、テレビ撮影専門のスタジオだ。古くは『ウルトラQ』から、ここが使われている。そのころは東京美術センター、略して美センと呼ばれていた。『ウルトラマン80』のオンエア当時、東宝ビルトに何度か遊びに行ったことがある。
 66年の『ウルトラマン』の撮影現場を報じた写真は当時から見てきたが、まったく雰囲気が変わってないのには感激した。最近になって、『ウルトラマンティガ』のために第5ステージが全面改築され、天井が高く、プールまで設置されたが、『ガメラ1』のときも、『ウルトラマン80』や、たぶん『ウルトラマン』時代のころとあまり変化がないはずである。東宝などは、昭和30年代の風景を、いまでも感じる。
 それはともかく、『ウルトラマン80』の現場は、初回の視聴率が伸びずに、明るい雰囲気ではなかった。あるとき、同人誌仲間の常岡千恵子譲が、美大の告知から、『ウルトラマン80』の怪獣造形のバイトをやることになった。常岡譲は、中学生の頃から東宝ビルトに通っていた猛者だったから、このバイトは楽しかったようだ。このとき、彼女から紹介してもらったのが、若狭さんだった。
 できてから間もないモンスターズは、世田谷の畑に挟まれた小さな工房だった。納品までの時間もない中で、ベテランの造形マン・鯨井実や学生だった原口さんが、加勢していたが、この時の怪獣造形はいま振り返ってもらっても大変だったようだ。なにしろ完成品を納品した覚えがなく、現場に入ってから塗装や仕上げをしたという。愛嬌のある常岡譲は、彼らのそういったストレスを解消したことだろう。なに作ってるのかと聞くと、フンドシだのダンボの耳だの……(注:ジヒビキラン、マーゴドン)。いまでも常岡譲は、モンスターズの海外取引の英文を引き受けて関わっている。
 『ウルトラマン80』にレッドキングが出た前後だったと思う。安井さんに、若いのに凄いヤツがいるんだよという話をした。安井さんもかつて学生時代は、バイトで円谷プロの怪獣ショーや開米プロの造形をやったことがある。それでものの試しとばかりに、レッドキングの頭部を若狭さんに作ってもらった。撮影用の型からだったが、現場で見た撮影用よりも出来がいい。これは『てれびくん』の紙面で使っている。海洋堂にあるのは、このときのレッドキングである。
 それ以来、安井さんの『アンドロメロス』の成功も、若狭さんの造形が決め手になった。また若狭さんの人脈で、このときの撮影に大野剣友会を呼べた。造形家の若狭さんは、仮面ライダーが好きで、剣友会に在籍したこともあったのだ。
 海外へ材料を発注したり、研究に行く若狭さんだが、研究熱心という意味では安井さんの影響が大きかったのかもしれない。
 等身大の兵隊レギオンを取材しに、若狭さんの話を聞きに行った。場所は、草体を作っているコスモプロだった。モンスターズの最近の怪獣は大きいのが多いので、広いコスモプロの作業場を借りることが増えた。コスモプロの代表の三上睦さんは、エキスプロ時代に仮面ライダーのマスク原型を作ったり、コスモプロになってからは『エックスボンバー』(80年)の特撮や人形製作を担当したことがある。いまは若いスタッフに一線を譲っているが、若狭さんとは持ちつ持たれつのいい関係である。
 東宝で『ゴジラVSメカゴジラ』(93年)をやるときも、ラドンを引き受けた若狭さんは、人材の揃っていたコスモプロを紹介して、あの重厚なメカゴジラが完成させた。重厚といっても、コスモプロのFRP樹脂の技術は、新作の仮面ライダー(スカイ、スーパー1)で実証済みだから、メカゴジラも計っていないだろうが、軽くて丈夫な作りものになったはずである。
 メカゴジラをこのとき、メインとなって作った金綱幸弘氏は、同人誌の購読会員で、ビリケン商会で彼が原型をやっていたころ、2度ほど会った。残念ながら、メカゴジラのあと、若くして亡くなられた。コスモプロへ通う度に、筆者は複雑な思いをする。
 コスモプロから、若狭さんの運転するバンに乗って、大映の造形スタッフルームに向かう道中、いろいろ話した。業界全体が総じていえるが、現場の期待に合わせていいものを作っても、それが次回の製作費に反映されないのが日本の特殊美術の実状だ。だから、手を入れれば手を入れるほど儲からないという悪循環になってしまう。彼の場合、スタッフをかかえる経営者だから、その辺は深刻のようだ。こっちはマスコミサイドの意見で、喜ぶのはお客さんだから、というしかない。
 この日は、アメリカのNFTというボア(人工毛)専門の会社から届いたサンプルを、原口さんに見せに行った。このボアは冒頭でふれた最高級品のボアで、下地自体が伸縮性の糸で全方向に伸び、毛並みに沿ってミシンで縫い合わせれば、その毛並みが再現できる優れものだった。『食人獣』という作品で、人食い狼に使われる。元は取れないといいながら、2人は嬉しそうにこの新素材を手にしている。いつもいいものを探してやまない探求心は、天晴れだ。こちらは、紙面で応援するしかないだろう。
 3人の若手造形作家の、裏話について雑然と書いた。もちろん、私見だからすべてがこの通りじゃないだろうが、まぁ皆さん、個性があって、いい人たちです。いい人たちが作った怪獣だから、怪獣たちもみんないい顔してる。66年の怪獣ブームに育ったわれわれの夢は、怪獣映画を作ることだったのかもしれない。怪獣の人形やプラモで遊び、絵を描いた。怪獣の縫いぐるみや怪獣雑誌を、こうして30年経ったいま作れる喜びで、当時と同じ子どもの笑顔を見せているはずだ。そういった大人も、世の中には必要なのだ。

                         <ガメラが来た2 96年12月19日発行 より>