高山良策 その3


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高山良策 その3

(再録)

ウルトラQ 2010年02月14日

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NHKのBSで昭和史の特番があった。怪獣を紹介するというので、見た。
1966年、昭和41年。
ぼくは当時、幼稚園。5才だった。
お正月に「ウルトラQ」が始まって、すぐ夢中になった。
「ウルトラQ」はヒーローは出ない。自然界のバランスが崩れ、われわれの前に脅威的な出来事が起こる。怪獣の出現や宇宙人の侵略、生物の巨大化、縮小人間、巨人、異次元。主人公たちは、人智の限りを尽くして挑んでいく。
面白いというより、怖くてならない。両親は階下で中華屋を営んでいたから、夜食のほとんどは一人でとらねばならない。
日曜の夜7時。
ぼくは一人でご飯を食べつつ「ウルトラQ」を見た。怖くなるとカーテンで身を包んで、その隙間からテレビを見た。
「悪魔ッ子」という話の時、ぼくはハシカで寝込んでいた。
サーカスの催眠術のせいで少女の心のバランスが崩れて精神と肉体が分離する。シナップスの破壊現象という子供には分からない話だ。
精神は霊体となって暗躍し、昼間少女が欲しがった新聞記者の指輪などを集めた。記者の乗ったセスナ機が墜落する。原因不明の事件が起きる。
そのすべてが少女のささやかな願望が成せるものだった。
純真な子供の心ほど恐ろしいものはないというテーマは、当時としては新しい。
教育ママが生まれる頃の話であり、高度成長期の建設ブームもあって、子供は遊び場を失っていく。抑圧された子供が無意識に起こす犯罪。今思えば共感し得る事件だ。
ガラモンやカネゴン、ケムール人、ラゴン、ペギラなど怪獣たちも魅力があって、ぼくはすぐ虜になり、怪獣の人形を集めた。
人形たちはたちまちオモチャを入れた篭で溢れてしまい、篭は3段くらいになった。
「ウルトラQ」も放映終盤(半年分の放送)、新番組「ウルトラマン」が紹介された。ウルトラマンは、これまたラテックスの崩れた怖い顔で、園児のぼくはとても正義のヒーローに思えなかった。
放映が始まると現金なもので、新しいヒーローへ飛びついた。
それまでのヒーローは、ぼくの世代だと「忍者部隊月光」やアニメの「鉄人28号」や「エイトマン」である。アトムは男の子が憧れるヒーローというより女の子が憧れたように思う。
ウルトラマンは無機質な鉄人や顔が人間そのままの忍者部隊なんかよりぜんぜん格好良くて心底好きになった。
ある時、「少年マガジン」の巻頭怪獣特集で、怪獣作りの名人が紹介された。その記事を、よく記憶の隅にとどめたものだと思う。
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高校生の時に、その時の記事のオジサンへ会いに行った。学園祭や名画座で組まれる懐かしの怪獣映画を追いかけていたぼくは、そういう場所で知り合った同世代の仲間と同人誌を始めた。
取材ならいろんな人へ会いに行ける。砧の東宝や円谷プロ、大泉学園の東映もよく行った。会える、または会いたいスタッフのところへよく押しかけた。
番組でも採り上げられた高山良策さんは、駒展というグループに属した前衛の洋画家だった。本業で売れる絵を描けなかった反面、バイトで始めた映像の美術の腕を買われてしまったのだ。
怪獣の縫いぐるみは、その延長線にあった。
「ウルトラQ」「ウルトラマン」「ウルトラセブン」のほとんどの怪獣を作り、映画では「大魔神」「ガメラ対バルゴン」、70年代のテレビでは宇宙猿人ゴリ、ライオン丸などを作っている。
それぞれの怪獣にデザイナーが居て、高山さんはそのイメージを崩さず人が着て動きやすい縫いぐるみを心がけて、丁寧に作った。
高山さんについては簡単に書ききれない。高山さんの晩年の2年間は、ぼくにとっては学生から社会へ出る直前でもあって、楽しくお付き合いさせてもらいつつ、就職の心配を常にしていただいた。
夏、千葉の別宅へ呼ばれた。記念写真はその時のもの。ぼくは19才くらいだと思う。高山夫妻と同人仲間。青いのがぼく。
この時、夕飯を食べながら、高山さんがふと、君たち、ぼくが死んでも覚えていてくれる?と聞いてきた。
すぐに答えられない。
ぼくは数年前に祖父を亡くしていた。ぼくを可愛がり、なんでも買ってくれた祖父は親以上にぼくを大事にした。
高山さんは包容力があって、童心さながらの愉快な事を言ったかと思えば鋭い大人の視点で物事を示唆してくれた。
でもたえず、同じ目線で居てくれたので、高山さんの怪獣のファンではあったけど、人間性に惹かれて行く。
その晩の割り切れない感情はすぐに切迫した事態に繋がった。年明け、高山さんが入院した。おばさんは電話口でもうしどろもどろだった。
しばらくして手術をする事になる。
O型の輸血用の血液が欲しいとの事で、片っ端から連絡を取る。同じ世代の怪獣好きがその頃はあちこちに居た。
40人以上の協力者が順天堂病院へ集まった。
ところがもう間に合わない状態だった。
当時、高校を出て、付属校なのに大学へ行かずに専門学校へ進んだぼくは夏を境にやめてしまった。
国際放映で特撮美術のバイトをした。それが終わった頃、編集をしている安井ひさしさんと知り合い小学館の児童誌のバイトを始めた。ぼくにはデスクワークの方が合っていたので現場の仕事は、それ以来、していない。
安井さんは後にガンダムプラモのブームを起こすような人だったが、やはり熱烈な怪獣マニアで、ぼくを弟分にしてくれた。
順天堂で入院している高山さんの見舞いは、小学館のバイトの合間によく通った。
それから一時退院となる。同人仲間4,5人が呼ばれたので、久しぶりに自宅へ戻った高山さんを訪ねた。病床から半身起こした高山さんは、ぼくらの前で、涙にむせた。
おばさんは後日、癌の事は高山には報せていないと言っていたが、あれだけ感情を揺すぶられてしまっては、本人は気づかないはずはない。おしどりのような夫妻だったから、おばさんの動揺を高山さんは敏感に知っていたのだ。高山さんは自分の運命を悟って、ぼくらの前で包み隠さない姿を見せた。
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高山さんは画家だから、怪獣造形へ特別のこだわりがあったのかと聞くと、むしろ見た目は誰がやってもさほど変わらないと言う。
ただ、着た人が危なくないように、着やすいように、動きやすいように考えるのが先だったと答えたのは意外であった。
実はおいおい人柄にふれて行くとよく分かった。本当に正直で隠し事のない実直な人なのだ。
デザイナーの絵を活かして丁寧にこつこつやった結果であって、狙って怖い顔にしたとか他社のを意識したとか、そういうのではない。
眠たそうなペギラの目がカッと見開く。演出というより、リモコンは高くて使えないからテグスや紐と自転車のブレーキを利用して握りでテンションのつく細工を考えた。高山さんは、それリモコンならぬ紐コンと言った。
絵も怪獣も、ともかくコツコツ手を動かす。ぼくらが遊びに行っても、展覧会の前だと絵筆を握ったままだ。
怪獣が面白かった一方で、高山さんの本業の絵も惹かれた。
駒展や個展、団体展も何度か足を運ぶ。高山さんが亡くなってから、お子さんの居ない家だったので、同人仲間と年に何回かおばさんの所へ集まるのを常とした。
前衛画家は総じて寿命が短いそうだ。描く期間が短い事もあり、志し半ばに亡くなる人も多いとか。
高山さんが亡くなってからの駒展へ参画した人形作家の天野可淡さんの人形はびっくりした。彼女もこれからという矢先、バイク事故で亡くなった。
可淡さんのストライプハウス美術館での展覧会は、高山さんのおばさんが紹介した。ストライプハウスは高山さんの絵を高く評価して、企画展として個展を3回やった。
ぼくらは個展の展示のお手伝いをやりによく出向いた。画廊や画家たちと仲良くなり、絵の世界を垣間見た。
高山さんの絵は魑魅魍魎が跋扈する沼の絵が多く、文明批判的なものも多い。
青春の多感な頃、輜重兵として中国戦線へ執られ、戦後は食うや食わずで、反骨心めいた作風へ傾いた。反戦、反米はあの時代、珍しい事ではない。
戦前からの絵の仲間に、山下菊二や「原爆の図」で知られる丸木夫妻がいる。
とくにベトナム戦争は心を痛めたようだ。
思い上がったキチガイどもへおれの作った怪獣が牙を向くように願うなどと日記に走り書きしてある。

高山さんの弱い者への愛情や労りは絵のテーマに垣間見られるだけでなく、近所の子供が学校の帰りに怪獣作りを見学に来た際にも、うるさがらずいちいち相手をしていたそうで、子供が無造作に頼むノートの切れっ端へのサインも、高山さんはいちいち怪獣の絵を簡単に描いてサインを添えた。
子供が持ち帰るのを忘れた絵をもらった事がある。その前に、お決まりながら色紙を差し出してサインを頼んだ。
すると、おれは芸能人じゃないからサインは出来ないんだ。と、言いながら、君たちが好きな怪獣の名前を後ろへ書いて置いていきなさい。絵を描いてあげる、と続けてくれた。
ぼくだけ特別に2枚描いてもらった。
ストライプハウスで高山さんの個展があった時、ぼくは生まれて初めて絵を買った。高山さんが高原へ行った時に掴んだイメージで鉛筆画である。
安くはないものの、初めて勤めた会社の給料で買えた事で、どこか恩返しのようなものが出来たように思った。

「ウルトラQ」への思いは、そのように番組の枠に留まらない。10年ほど前、アスキーで「ウルトラQ伝説」という本を書いた。文庫本2冊分の文字量がある。
それでも1万字ほど削った。思いは、後から後から湧いてくるのだ。


<追記>
高山さんのカラー写真は安井尚志さんの撮影。80年頃。