オタク


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雑感


(再録)

09-08-09 オタク

生まれてこの方、オタクである。こればっかりはどうにもならない。
子供の頃・・・。
家は中華屋で夫婦共働き、ぼくは2階で一人で遊ばなければならない。
日銭が入るので、親はせめて玩具や本を与えておけば大人しくしてくれると思い、せっせとぼくへ買い与えた。
贅沢だったと思う。親に感謝していますよ。
もっと輪をかけたのが祖父だ。新宿の駅前に会社があって、毎夜デパートへ寄ってお土産を買う。
祖父は洒落者で舶来のお菓子や玩具を選ぶ。
ぼくは喜んでキスをする。孫の喜ぶ顔が嬉しくて、じじはなんでも買って来る。
たぶん生涯でもっとも楽しく充たされた時間だ。
それでも日中の孤独は癒せない。近所の友達と遊ぶ一方で、我がままになっていて、結局、一人の方が楽しかった。根暗な幼児だった。
記憶の最古は、幼稚園になる。
そんな環境なので保育園代わりにぼくは幼稚園で4年保育を受けた。
園児の中でも小さくて、先生は、ぼくがお弁当を食べ終わるまで囲んで見守ってくれた。箸が使えずホークを使う。その記憶が残っている。
母は忙しくなければ映画やデパートへ連れて行ってくれた。
映画館は娯楽の殿堂だ。
あの輝かしさは、現代の子供には分からないだろう。
上映中にアイスモナカを売りに来る。子供はクライマックスに総立ちだ。
非常口の点灯がまだ義務づけられてなく真っ暗な中で、銀幕だけが鮮やかに彩られて集中した。
アニメなんて言葉はなくてマンガ映画と呼ばれていた。
テレビの子供向け番組はマンガ呼ばわりなのだ。
アニメも特撮もヒーローも、当時の映画やテレビはほとんど見ていている。高度成長期の頂点に幼少を過ごしたから、家は中流ながらぼくは不自由しなかったし、黎明期のアニメや特撮を体験出来ていた。
076_33.jpg具体的に書く。
東映動画の長編マンガ映画、「わんぱく王子の大蛇退治」「西遊記」「シンドバッドの冒険」「ガリバーの宇宙旅行」「わんわん忠臣蔵」、それらの再映を含めた興行はぜんぶ行った。
当時の書籍の印刷技術はまだ稚拙で、セル画を元にした映画のフィルムの美しさは、あらゆるカラー媒体で、もっとも美しい。
むろん、ディズニー映画がそれ以前にあったけど、ぼくはディズニーより東映が好きだった。
大人の目で振り返ればキャラクターを作った森康二さんの絵が好みに合ったのだ。
70年代の「長靴を履いた猫」まで、ぼくは<東映まんがまつり>を楽しんだ。
品川区の中延に住んでいて、大井町へ出かける事が多かった。映画を見て、阪急デパートで買い物と食事をして帰る。
また品川公会堂が大井町にあって、お遊戯のお披露目をやり、マンガ映画大会もそこでも観ている。
ある時、阪急デパートのレストランでぼくはダダをこねた。母は怒って席を立ってしまった。
ぼくは迷子になった。恐くて心細くて、ひどい目に遭った。
大井町は国鉄の車庫がある。いろんな電車や貨物列車のさまざまな種類が並んでいる。
60年代前半に蒸気機関車はもうなかったと思うが、何故か、巨大な鉄の塊である汽車の思い出がある。迷子と映画とデパートと。それらが渾然となって、夢に出る。金属の味が口の中に広がる。

怪獣が登場したのは、ぼくがマンガ番組にはまっていた頃に突然になる。
多分に漏れず、「鉄腕アトム」や「鉄人28号」、「エイトマン」は好きで、テレビにかじりついた。
モノクロテレビの室内アンテナ。写りは良くない。でもテレビの画面は一人で過ごすぼくの魔法の鏡なのだ。
自分の姿を映す。アトムになったり、鉄人になったり。
グリコのお菓子をずいぶん買ってもらい、鉄人のグッズや景品が集まった。
鉄人の後番組に「遊星少年パピィ」や「遊星仮面」が始まって、グッズはどんどん増えて行く。
「遊星仮面」のグリコ最大の景品は、かつら付きのゴーグルにマントにベルト。つまり変身セット。ぼくの変身の最初である(後にコスプレの気が出る)。
「忍者部隊月光」も好きで、ポリエチレンの刀と手裏剣も重要なアイテムになる。ちゃんと鉄兜を模した塩ビのヘルメットもあった。
そうやってヒーローになって、絵を描いて、マンガを読む日常だった。フォノシートが出始めて、レコードプレーヤーを操った。
DJみたいに指でフォノシートへ抵抗をつけて音を歪めて遊ぶのだ。セルロイドが焦げるような臭いが懐かしい。
そんな事をしているうちに怪獣が登場した。
2326565.jpg66年の元旦が明けた翌2日に始まった「ウルトラQ」は、ぼくを画面へ引きずり込む。
ゴジラのようなゴメスと戦う小さな鳥の怪獣リトラが健気で、夢中になった。
正月で家族で見たから気がつかなかったが、実は「ウルトラQ」は恐い話が多い。
翌週からぼくは日曜の夜7時のその番組を一人で見続ける。
世間の子供が家族団らんとするその時間帯、ぼくは一人で夜食をとる。それも時間が定まっていない。早い時もあれば遅い時もある。
お店で両親が働いている家は当たり前の光景で、べつだん、ぼくは嫌ではなかったが。
ただ「ウルトラQ」は恐くて、カーテンを体に巻いて、その隙間からテレビを見た。あまり恐いと部屋を出てしまう。階下の両親の顔を見て、それからまた部屋へ戻る。
園児は不思議な生きものだ。
とにかく、ジッとしていられない。親にかまってもらいたくて騒ぐ。テレビと現実がごっちゃになる。
「ウルトラQ」の怪獣がソフトビニール人形になって発売された。
新宿や渋谷のデパート、武蔵小山や地元の玩具屋で、見つける度にぼくは焦って、ドキドキしながら買ってもらう。
父は車をもっていないので出かける時はタクシーを拾う。帰りの車の中で我慢し切れなくなって怪獣を袋から出す。
暗がりの車中へ入るヘッドライトの赤や黄色や白い光が、怪獣を照らす。怪獣はメタリックなスプレーが吹いてあった。
クレヨンにない色が新発見である。
色と形。映像と現実。虜になって、怪獣で遊ぶ。
そんな子供だった。
「ウルトラQ」の後番組に「ウルトラマン」が始まり、66年の夏から冬にかけて、怪獣ブームが起きる。
あらゆる玩具や本やフォノシートを買ってもらった。膨大な数だ。
怪獣人形を入れた篭が2段になり、3段になる。
年が明けて、春が近くなった頃。
小学校へ入る前に、母が言った。そろそろ怪獣は卒業だと。
親は無学だったので、子供を良い学校へ行かせようと私立を選んだ。そのため、幼稚園の最後の年は青山の知能開発センターへ通う。
積まれたブロックの絵を見せられていくつあるか即座に答えたり、日常の中の英語を見つけたり、パズルをやらされた。
親は褒美にしぶしぶ怪獣を買ってくれた。
またぼくは病弱で、扁桃腺を腫らして高熱を出す。注射を打ちに行く度に怪獣をねだった。
扁桃腺の放射線治療をしに昭和医大へ通う。ベッドへ寝かされて、上からZライトみたいなもっとゴツイものを喉へあてがえて、しばらくジッとするのだ。
恐くて嫌だった。床がいつも濡れている。何故だったのか?
ぼくは絵が描けない子供だったので、幼稚園が終わった後、絵と習字を習う。絵は近所の美大生に頼んで家庭教師をつけてもらった。
その時のスケッチブックが1つだけ残っている。
小学校へ入っても怪獣は買ってもらえた。
でも、だんだん怪獣ブームに陰りが見え始め、実際、番組に飽きていたぼくは、ある時、怪獣の玩具を卒業する。
無理な卒業だったかも知れない。子供は子供らしい方が良いのに。
その反動がやってくる。反動の繰り返しで、こだわりが深まって行く。
12496.jpg中学も私立だった。受験勉強はとかく嫌なものだ。熟や進学教室へ通い、模擬試験を受ける。
情けない話だけど、中学へ入ってすぐに登校拒否をした。ダメな学生になったのだ。両親のケンカ。店の売り上げの伸び悩み。父が保証人になっての借金。気まずい雰囲気が家庭で渦を巻く。
ぼくは心を閉ざす少年になる。
鬱病の走りだろう。ぼくを救ったのは、「宇宙戦艦ヤマト」や「ルパン三世」の再放送だった。
オタク開花のきっかけになる。要するに、そこへ夢を求めた。現実がつまらなくて。
70年代後半。
ハリウッドのホラーやSFが入って来て、ぼくは嬉々として学校の帰りに映画館へ立ち寄った。
「エクソシスト」「デアボリカ」「ローズマリーの赤ちゃん」。それに、「スーパーマン」「未知との遭遇」「スター・ウォーズ」。
一通り観て、でも好きなのは昔の日本の怪獣映画だと言う事に気がつくと、飢えを充たすように、各地の文化祭や名画座の企画で昔の怪獣映画やアニメのプログラムを発見して遠くまで出かけた。
あまつさえ、学校の帰りに成城学園にある東宝や円谷プロへ遊びに行く。
物欲しそうに覗くうち、スタッフと仲良くなる事もある。
そうして、ぼくはオタクになった。
仕事で堂々とオタクをやっている。
もうこの年になると、オタクは治らない。というか、遅れてオタク開眼する人も増えたので、開き直ってもおつりがくる。
まぁ、オタクも、そんなに悪い事じゃないですよ。他人へ迷惑をかけませんし。第一、物事を深く掘り下げる癖があって、楽しいと思う。
そんなわけで。