高山良策 その1


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高山良策 その1

(再録)

09-08-10 シュールレアリズム

p1.jpg中学高校の頃、ぼくは勉強が嫌いだった。6年間我慢すればエスカレーター式に大学へ行けたがぼくは進学を選ばず、デザイン学校を選んだ。
点数を採るだけの勉強の意味が分からない。社会へ出た時に役に立つとは思えない。小学校からの無意味な勉強にほとほと嫌気がさしたのだ。
かといって不良にはなれない。不良は各クラスに一つかみほど居たけど、ぼくは染まらず、速攻で帰宅した。帰宅部だ。速帰部とも言っていた。
もちろんそのまま家へ帰らない。本屋やレコード屋を散策した。秋葉はその頃から通って映画やテレビのサントラレコードを探した。
撮影所や映画のスタッフの所へ学校の帰りに遊びにも行くようになった。
出来の悪い学生で将来への希望がなかった反面、趣味は一途になっていて、どんどんのめって行った。
男子校だったから女の子と遊ぶ機会も限られていたが、そもそも趣味へ惹かれたから仕方がないと考えた。
いや、正確に言えば、冴えない自分にも自尊心があって、高望みもある。女子校の文化祭へ行っても、もじもじしているだけのチキンだったのだ。
もし人生をやり直せるなら男子校へは絶対に行きたくない。
初対面の女性へ気易く話しかける事が出来ないのは、原体験が、男子校の時のコンプレックスにあったように思える。言い訳ですけどね。
なにしろ当時、ぼくは煮え切らない青春の思いを脇に置いて、オタク道を開花。「宇宙戦艦ヤマト」や「ルパン三世」にはまっていた。
また、懐かしい特撮番組の上映会を求めて学園祭や文芸地下の興行へ通っていた。アニメも特撮も、現実を忘れて夢心地にさせてくれたのだ。

上映会で知り合った仲間と同人誌を始めた。
学校の帰りに撮影所やスタッフの所へ立ち寄った。
一番の思い出は、「ウルトラQ」や「ウルトラマン」「ウルトラセブン」の怪獣を作った高山良策さんだった。
大魔神やライオン丸も高山さんの手になる造形物だ。
高山さんの仕事は、デザイナーが描いた怪獣などの絵を、人が着て動かせる縫いぐるみにする作業。
お父さんが大工だったので、職人気質がある。中の人を考えて丁寧に作った。そのため、役者はかならず仮縫いに立ち会った。
デザインを損なわないよう細心の配慮をしたのでデザイナーは喜んだ。
怪獣は、眠そうな半開きの目がカッと見開いて、咆哮をあげる。どこかとぼけた顔で、どこか寂しそうなたたずまいがある。
子供だったぼくはゴジラより、ウルトラ怪獣の方が好きだった。
ペギラ、ガラモン、カネゴン、ケムール人、ラゴン、ベムラー、レッドキング、ペスター、ドドンゴ、アボラス、バニラ、ダダ、ブルトン、ゴモラ、メフィラス星人、ゼットン、エレキング、キングジョー、ガッツ星人・・・。挙げたらキリがない。
ウルトラマンが怪獣を倒すのが嫌だったのだ。
もっと怪獣が暴れていたら良いのに。

高山さんの本業は絵描きだった。
前衛の画家で、高山さんが属している駒展の招待状をもらって、慣れない上野の美術館や銀座の画廊へ足を運んだ。
シュールレアリズムは、学校で習うのと違って、もっと人間臭くて身近な感覚と気づく。面白さの発見というか、日常の風景の角度を少し変えたり深く考える事で、深層心理が浮かんできたり別の意味をもってくる。
それが面白くて、怪獣の話を聞きながら絵を見せてもらって、感受性を養えた。
高山さんはしかし、絵描きにだけはなるなよといつも言った。絵描きは食えないからと。
高山さんは山梨の片田舎で育ち、尋常高等小学校を出ると口減らしで神田の製本屋の丁稚として上京する。
絵が好きで、絵描きになる夢を見つつ、やがて出兵となる。
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輜重兵(しちょうへい)は馬を引く仕事で、戦争へ行っても悲惨な体験を避けられたようだ。
戦地で絵を描く事が出来た。のどかな大陸の風景、疲れ切った中に安堵の顔を見せる仲間や上官。馬やクーニャンの表情。
そのスケッチを持ち帰る事が出来た。中国戦線から戻ってから、教育映画の美術に加わった。
戦後、西武線東長崎にアトリエ村と呼ばれる一角があって、製薬会社で図案を描いていた高山さんは、秘書をしていた奥さんと結婚に至り、アトリエ村で、貧乏に耐えながら絵を描いた。
新婚の夫婦を病が襲う。奥さんがカリエスにかかり寝たきりとなる。高山さんのつききりの看病が夫婦の絆を深めたのじゃないかと思う。
その頃は、児童誌の人形、教育映画のセットなどを副業でやって、軌道に乗っていた。
出兵でもらった勲章を、アトリエの台でハンマーで叩きつぶしたそうだ。
絵の仲間に、「原爆の図」を描いた丸木夫妻や、反権力の山下菊二らがいる。
物静かで争う事が嫌いな高山さんは、意志の人だった。
生涯、絵は一点も売れなかった。また売らなかった。
それでもこつこつ働いて、石神井に、こじんまりとした念願のアトリエ付きの家を建てた。

NNN332.jpg高山さんの存在が知られるようになったのは66年に起きた怪獣ブームの火付け役、「ウルトラQ」「ウルトラマン」の怪獣を作った時だ。
ぼくは幼稚園だったけど、「少年マガジン」や「アサヒグラフ」のウルトラマンの記事で、高山さんが怪獣を作っている写真を見て以来、ずっと気になって憧れていた。
怪獣の同人誌を始めた時に、真っ先にファンレターを出した。
すぐに返事が来たので、石神井公園のお宅へ伺ったのだ。
60代のオジサンが、高校生相手にどれだけ真摯に尽くしてくれたかは紙面に尽きないほどの思い出があるが、いつもぼくらと同じ視点で意見をしてくれたり包容力いっぱいに話を聞いてくれたり、決して子供だからといって言葉を濁したり誤魔化したりはしない人だった。
ぼくは高山さんと知り合う少し前に、大好きだった祖父を亡くしていたので、高山さんに祖父を重ねたのかも知れない。
高校を出たぼくはデザイン学校へ入った。その事で、高山さんは心配をしてくれたけど、自分で選んだのだ。
その夏、高山さんの千葉の別宅へ、同人誌の仲間Mくんとともに遊びに行った。
海岸へすぐのところで、沼が近くにある。
高山さんの絵画<沼シリーズ>は、千葉の沼がヒントになっている。沼に沸き立つ丸い魂のような模様が、さまざまな形へ変化していく。魑魅魍魎が画面せましと跋扈して、過去から未来へ無意識が突き抜けていく。
学校から解放されたぼくは伸び伸びと、生まれて初めて人生を楽しめた気持ちになった。
夏休みに撮影所でバイトをやり、高山さんの所で知り合った怪獣同人の先輩と仲良くさせてもらって、出版社へ出入りするようになった。

年が明けてすぐ奥さんから電話が来た。
また遊びにいらっしゃいというのが、いつものパターンだったが、その声は緊張していた。
癌が見つかったのだ。入院と退院を繰り返す。
高山さんがいったん退院した際にみんなで伺った。病床に居た高山さんは、本当に悔しそうな顔で、包み隠さず感情を出して嗚咽した。自分の病気が分かっていたのだと思う。
ぼくらは言葉が見つからない。
順天堂病院への入院。週に1、2回は見舞いに行くと、高山さんはつらいのに笑顔を見せてくれる。
そして手術になる。O型の血液が必要となるので、(実は癌は胃だけでなく血液に及んだ)ぼくらは仲間をかき集めて順天堂へ集まった。まず血液検査をしなければならない。O型が40人も集まった。
それなのに、残念ながら、手遅れだった。
病院は驚いた。先生や看護婦さんが、高山さんは、お子さんがいないと言っていたけど、あんなにたくさんの子供たちが来てくれたんですねと、何度も何度も高山さんへ告げた。
その夏。
ぼくはデザイン学校はとうに辞めていて、先輩に付いてライターの真似事をやっていた。高山さんはぼくの就職を心配してくれていたので、先輩はなんとか便宜を図ってくれたのだ。
仲間のMくんと見舞いに行く。9時半を過ぎたのでおいとましようとした時に急変した。
医師が駆けつける。
高山さんの、天井を見開いた目がくわっと見開いて、しばらく時間が止まっていたかと思うと、すーっと息が抜けて行く。
そのまま帰らぬ人となった。
たくさんの怪獣を作って日本中の子供を楽しませた人だったのに。
ぼくとMくんは千葉の別宅で、夕飯の時にこう言われた。「君たち、ぼくが死んでも、いつまでも覚えていてくれるかい?」。
まだまだ元気だったので、冗談だと思っていた。その1年後なのだ。
最初に遊びに行った晩、終電間際まで居たぼくらはかろうじて帰れはしたけど、高山さんが泊まって行きなさいと言って、ご厄介になった。高山さんはわれわれの自宅へ電話をして預かりますよと断ってくれた。
次の日の朝、帰りがけに握手をしてもらった。大きくはないが、温かい肉厚のある指と掌だった。
上野の美術展の帰り、切符を買おうとしてふと見ると、そのゴツイ手が目の前にある。高山さんも振り返って、やぁ!と言う事なった。
亡くなる少し前、高山さんは朦朧としていたので、奥さんが、Yくんが来ましたよと言うと、高山さんは目を開けて、ああ・・・と言う。
ぼくは手を握った。手はゆっくり動いて握り替えしてもらえた。
でも、もう、その体は動かなくなっていた。
その晩からの事はよく覚えていない。通夜をするので、そのまま高山家へ戻ったのか、まだ死後の検査をするので一晩空いたのか、ともかく、仮通夜をして通夜をして、葬式をして、ずっと高山家を往復し、家に留まり、裏の奥さんの親戚宅へ泊まった。
あちこちの関係者へ葬式の案内をするために奥さんの代わりに電話をかけた。それから仲間を割り振って駅に立つ案内役や受付の係を決めた。
絵描きの高山さんの友人たちはご年配だから、若い怪獣ファンの方が機動力があった。
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高山さん本人とは2年ちょっとのお付き合いだったけれど、以来、年に何回か、ずっと高山家にみんなで集まった。奥さんは、いつの間にか、みんなのオバサンになっていた。一日、なんでもない話をして、お茶と食事をいただいて、夜遅くなって解散する。
駒展や高山さんの回顧展以降の展覧会に通った。絵描きさんの知り合いも出来た。展覧会のお手伝いもずいぶんやった。
なにしろ高山家は男手がないので、絵の整理、搬送までの準備をわれわれがやるしかない。
ぼくはバイトが仕事になり、就職をし、職替えをし、家の中のいざこざやさまざまな話をオバサンへ話した。
オバサンはある日、イタリア旅行の企画があるから一緒に行ってらっしゃいと誘ってくれた。
女子美の先生と、美術評論家、画家の奥さんたちと美大生らがツアーを組んだ。ぼくもそれに紛れて、イタリア、スペイン、フランスと2週間、絵の旅をさせてもらった。
初めての海外でもあったのと、もう30代にもなっていたのとで、それなりに感慨深く新鮮な体験をさせてもらった。
ぼくは絵描きにはならなかったものの、今は怪獣の人形を作っている。
怪獣の本も、子供向けからマニア向けまで、出す事が出来た。
それらのきっかけは、高山夫妻が温かい目を向けて、ひょろっとしたぼくを成長させてくれた事にあるように思う。

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