紋次郎その1


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雑感

木枯らし紋次郎 その1

(再録)

09-08-24 木枯らし紋次郎

7mo3.jpg3年前にケーブルテレビを契約した。テレビが壊れて買い直す事になり、量販店へ行ったら地デジ対応を薦められて、家主がいるならまず相談した方がいいと言われた。
もうこのアパートは10年目となる。大家さんはすぐ裏に住んでいて、庭続きだし、家賃は振り込みを断って手渡しで毎月届けている。日頃、挨拶をしていた方がなにかの時に便利だし、だいいち向こうだってワケの分からない人物が長居しているのも気持ち悪いかもしれない。
朝早く軒の前を掃いている。隣の棟も同じ大家のアパートなので、大した距離じゃないから、ちゃんと掃く。
道が綺麗になるとそういう部分は大家さんも見ていてくれて、たまにお礼を言われる。
そんな感じだから地デジの工事は快諾してくれた。ぼくはそのままついでにケーブルテレビへ入った。
日本映画が好きだったのに加え、マイナーなアニメも楽しみにした。でも一番はまったのが、時代劇だった。
「木枯らし紋次郎」がちょうど始まった。
懐かしいなと思って見ていたら、はまってしまった。
こんなに良く出来た番組はない。
自分にとって、最高の番組は、幼い頃に自分を釘付けにした「ウルトラQ」や「ウルトラマン」があるが、「木枯らし紋次郎」は、大人になってから、ぼくを釘付けにした。
72年当時、たしかに小学5年生のぼくらの中で、紋次郎ブームがあった。
遠足へ行った際に、田舎道で取った雑草の茎をみんなで口に咥えた。一人がつんのめって茎が喉へ刺さって、その遊びは中止になった。
先生たちは、そんな番組は見てはいけないと言った。
夜の10時くらいなので、実際に見ている生徒がどれだけ居たか分からない。ぼくは、たまに見た。
その頃、妹が生まれて幼稚園くらいになっていた。ウチは狭かったから、親の部屋がそのまま居間で、妹も寝かされていた。
両親は階下で中華屋をやっていて、土曜の夜ともなれば12時くらいまで繁盛していた。
だから暗い部屋で一人で「木枯らし紋次郎」を見た。
紋次郎はいつも無愛想で、恐い話ばかりだった。常に見られるわけではない。冒頭の歌を聴いて、何故か歌だけは爽快で楽しいのに、ドラマが始まるととたんに暗くて難しい話になる。
「木枯らし紋次郎」はいわゆる時代劇の王道である、チャンバラや勧善懲悪を見つめ直した企画だった。
時代劇は言うまでもなく、江戸歌舞伎の流れを汲む。したがって歌舞伎役者がよく映画へ出たし、見栄の切り方もそれに倣った。大仰なチャンバラだった。ドラマも戦前のキネマの頃からの勧善懲悪が主流だ。
戦後10年目の辺りまで、日本映画のメインストリートは京都だったのだ。
ぼくは54年の「ゴジラ」の資料を集めていた時に日本映画全体の輸出用のパンフレットを手に入れた事があった。
54年に制作された邦画各社の映画を1冊に集めたもので、巻末に各撮影所の俯瞰図が載っていた。
松竹京都、東映京都、大映京都が先にあって、それから松竹大船、東映大泉、大映府中、日活調布、東宝砧のスタジオが、日本の映画会社というくくりで紹介されていた。
つまり、この時代は京都のスタジオこそが、日本映画の顔だったのだ。
高度成長期の加速と共に時代劇に陰りが見えて、現代劇がもてはやされた。
それでも時代劇は60年代の映画館の華であった。大映などはあえて東京と京都の現代劇と時代劇を組み合わせて興行を作った。
同時に、テレビの時代がやってきて、邦画各社はテレビ部門を作った。
5社協定というのがあった。邦画5社(あるいは新東宝を入れて6社)が、それぞれの相手会社の役者やスタッフを勝手に使わない暗黙の約束で、さらに、テレビへも勝手に貸し出さない紳士協定だった。
労働争議などを経て、テレビの力が付いてきたあたりから、この協定はあやふやになって、70年を境に映画会社は衰退した。
映画のスタッフが行き場をなくしてテレビへ流れ込む。
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「木枯らし紋次郎」はそんな時代の作品だった。
放送してしばらくして、製作協力していた大映が倒産する。
しかも主役の中村敦夫が足を骨折して番組は中断。それでも臨時に作られた新作を間にはさんで、再開し、視聴率を稼いだ。
「木枯らし紋次郎」はある程度のヒットとブームを起こした。時代劇の中ではトップクラスかもしれない。
70年代後半はオイルショックと高度成長の終焉で予算が減って、時代劇も苦しくなっていくのだが、いま振り返って見てみると、この時代のあがき苦しんで生まれたテレビ時代劇に、映画人とテレビ人の秘めたる思いや力量や意地を感じてしまうのだ。
本当に、よく出来ている。
たしかに、映画でつちかったスタッフの力、カツラや衣装などの蓄え、人材の伝統的な技術、それに役者たちの成熟した演技や新人たちの意欲も挙げられる。
中村敦夫はまさに新人だった。ワイルドで渋くて、寂しそうでいて、どこか優しい。女性ならずとも、男が憧れる。
もう1つの見せ場は、70年代の日本の、日本人が描く古い日本を彷彿とさせる心象風景のような田舎道だ。森や木々、川、山、田畑、海、砂浜、それらがセットとは別に、時代劇の縁の下の力持ち的な見せ場となる。
いま時代劇を撮るのは大変なのだ。
電柱や高圧線、舗装された道、さまざまな近代設備が映ってしまう。もちろんCGでなんとでもなるのだけど。
「木枯らし紋次郎」は、正式には、「市川崑劇場 木枯らし紋次郎」と言う。
東宝、大映で活躍した市川崑が監修し、シナリオも自ら手を入れ、数本撮っている。
市川崑はその頃、「東京オリンピック」「トッポジージョのボタン戦争」などを撮っていて、ぼくはそれらは観ていたが、監督の名前とこの時代劇が合致したのは大人になってからになる。
市川崑は、それまでの時代劇のつばぜり合いを止めた。紋次郎は渡世人なので、上等な刀を持っているわけではないし、常に生と死を見つめている中で生き残るには、刀は命綱になる。折れてはならないから、相手を突くように刀を振るった。
その結果、派手なチャンバラがなくなった。いつも泥にまみれて転がり回った。
衣装もぼろぼろで汚く、足袋は繕っていた。破れた着物を紋次郎は自ら器用に縫って直すのだ。
紋次郎は学がない。おそらく躾や常識とは縁のない無頼の世界を幼い頃から見ていたはずだ。エンディングで芥川隆行が語る。
「木枯らし紋次郎、上州新田郡、三日月村の貧しい農家に生まれたという。10歳の時に故郷を棄て、その後一家は離散したと伝えられる。天涯孤独な紋次郎がどういう経由で無宿渡世の道へ入ったか定かではない」
このナレーションがいかにも恨めしく寂しい。
実は紋次郎は口減らしのために間引きされるはずだったのを幼い姉が助けた。紋次郎が追うのは、亡くなって会えるはずのない姉の影かもしれない。
上条恒彦が歌ってヒットした主題歌「誰かが風の中で」の作詞は、市川崑作品の脚本家で、奥さんでもある和田夏十が書いた。
その歌の2番、
「痛みは 生きているしるしだ 
いくつ峠をこえた どこにもふるさとはない 
泣くやつはだれだ このうえ何がほしい」
という一節。
絶望に慣れきった紋次郎の、垢に染まった不器用な姿が浮かぶ。しかし、その先にきっと! 待っている、誰かがいるからこそ、つらい世の中で生きている。
そんなニュアンスの歌である。紋次郎の精一杯いまを生きる眼差しは、高潔に思えてくる。
勧善懲悪ではない、絶望の底を少しだけ這い上がっただけの時代劇。殿様や将軍が仮の姿で町人へ化ける呑気な世界ではない。でもそこに、ぼくは勇気をたくさんもらった。
10月からハイビジョンで時代劇専門チャンネルで放映されるので、また見ようと思っている。

LinkIcon木枯らし紋次郎 09-10-12